心が怪我したときは

心が怪我したときに、それを治す方法がある。
いたってシンプルな方法だ。

心が怪我とまでいかないまでも、
心は日々、いろいろなことで消耗したり傷ついたりしている。
とくに現代はさまざまな人工的な刺激にさらされて、
知らず知らずのうちに、心は疲れていく。
休日になると、それを癒やすために、人はいろいろなことをするけど、
でも、それがなおさら心を疲弊させたりする。
「休日疲れ」って言葉があるくらい。

では、どうしたらいいのだろうか。
そこで役にたつのが「瞑想」だ。
これは私がヨガをしているから、そういうのではなくて、
原理的に考えて、やっぱりこれしかないという感じなのだ。

何故、瞑想が「心を癒やす」「心の疲れを抜く」のか?
瞑想の一番の特徴は、現実的に役に立つことをしないことにある。
過去を反省したり、未来の計画を立てたり、人間の考える能力を
使うことが普通は「役にたつこと」だろう。

でも、瞑想では呼吸を感じたり、体の感覚を感じたり、
人間の高度な頭脳が、ぜんぜんいらないような
非生産的な状態にとどまる。

「これがいったい何の役に立つんだ?」

私の中の「合理主義者」が叫ぶ。
時間を使うなら「生産的に、有意義に使いたい」と
現代人なら思うだろう。
しかし「役立たずな状態」こそが秘密。
「なんにもしていないことが最高の役にたつ」のだ。
嘘みたいな本当の話。

これをわかりやすく説明してみよう。

たとえば「指を怪我したとする」とする。
で、「その指をどう使ったらなおるだろうか?」
どんな動かし方をしても、傷口は開くだろう。
だから「なるべく動かさないに限る」のだ。
そうすると生命力の働きで、傷口はふさがっていく。

心も同じで、意識的に「考えたり」「悩んだり」
していないときに、なおっていく。
でも、心を動かさないって、悟ってもいない限り、凡人には
ほとんど不可能!
だから呼吸の瞑想では、「呼吸」という対象は
指(心)が動かないように固定するギブスだ。
しっかりと安静にして、自然になおるのを待つ。

こういう風に思考を要さないことに没頭することが、瞑想的な回復をうながす。
心が休憩できるような「何もしない時間をつくる」ということが
とても大切だ。

とても心が傷ついて「なんにもする気がおこらない」という
鬱状態のときは、なんにもしないのが正しい。
怪我した足で歩きまわると痛いだけだ。

でも、人間は体を横たえていても、つねに
忙しく頭が動いているという状態になりがち。
「私が悪い」とか「あの人が悪い」「社会が悪い」とか、
批判したり自分を責めたりで、

心は一刻も休まらない。
「そうか、考えないことが心を蘇らせるのか」と考えても、
「考えないこと」を「考える」ことで「考える」状態が生み出される。
だから、まったく考える必要がない無意味にすら思える対象に意識を向けるという
時間が必要になる。

頭を忙しくつかって、計画していない時間は無駄じゃない。
現代人にとって、それはとても重要な時間だ。
無駄と思える時間こそが、宝になる。

th_DSC09657
わが家の猫さんカイ。
子供たちに追い立てられて、階段で一休み。


Category: 未分類, 生活を変える方法, 瞑想

- 2015年7月13日

コメントを残す

Your email address will not be published / Required fields are marked *