護身術について

 

ちょびっとスリリングな目にあって、
やっぱり護身術みたいなものが必要なのではないか、と
考えさせられことがあった。

過去、私はいろいろな武術を体験したことがある。
ヨガをはじめてからは、武術とは質の違う強さを目指して
ほとんど練習をやめてしまった。
日常生活に危険などないし、武術が必要だと思う瞬間もなかった。
しかし、今やっている仕事はトラブル解消係みたいな側面のある仕事で、
おかしい人に積極的にかかわらないといけない。
そうなると、もしもの襲われたときのことを考えざるえない。

自分が体験した中でも一番実践的な武術は八極拳だ。
八極拳は、とても攻撃的な武術で
実際に技が決まれば相手は怪我をする可能性が高い。
でも、そんな破壊的なことをしてしまったら、
相手が怪我をしたりすれば過剰防衛で訴えられるだろうし、
恨まれるから復讐を恐れて生きなければならなくなる。
暴力は暴力を呼ぶ。

そうなると、武術をそのままの形で使うことはできない。
でも、武術で養った「功夫(ゴンフー)」はかなり応用が効く。

たとえば私が自分よりも功夫のある人に手首を握られたら、
まったく体のコントロールを失うだろう。
功夫があれば殴る蹴るの技なんてなく、ただ相手と接触するだけで
相手を崩すことができる。
もしものときは、相手を転倒しない程度に、バランスを崩して
体のコントロールは奪うことはできるだろう。

武術を体験したとき、老師は「あの人は功夫(ゴンフー)がある」という
表現をされていた。
それは体の大小ではなく、武術的な基礎がしっかりできているという意味だ。
功夫の無い人はいくら筋肉がムキムキでも接触すると、とても軽く感じる。
体のバランスが崩れていて、少し押すと崩れてしまう。

逆に細い人でも功夫のある人は、鉄筋でできるているかのような感触があって
押しても引いても崩すことができない。
前者の功夫のないマッチャマンが「体がバラバラ」だとしたら、
細い功夫のある人は「体が1つにまとまっている」という表現ができる。

で、その功夫をつける方法は、それはズバリ「站樁功」だ。
たとえば馬歩立ちでじっと立っているとか(馬歩站樁)
ボールを抱えたような状態で軽く腰を落として立つとか(立禅)
静かなトレーニングで養うことができる。

八極拳の伝説的達人である李書文に弟子入りした
劉雲樵が課されたトレーニングは、ひたすら腰を落として
馬に乗るような姿勢で立つ馬歩立ち!
徹底的に功夫を養うことを主眼したメニューだった。

形意拳の達人に学び、のちに国手と呼ばれるまでの
達人になった王向斎がメインに置いたトレーニングは
站樁(立禅)という動かないトレーニングだ。

武術をしていない人でも、これらの站樁功(じっと立つトレーニング)は
体のバランスを整えて、体を健康にする。
武術の気功化だ。
立禅はいまでは気功としても行われているけれど、
もともと武術の根幹だった。

というわけで、立禅や四股などの体のバランスを鍛えるトレーニングの
時間を増やすことにした。

もう1つ功夫をつける方法があるとしたら、
体の鍛錬だ。

腕立て伏せやスクワットなどの自重トレーニングもいいだろう。
木刀をふったり、四股を踏んだり、
ケトルベルなどで体の総合的な筋力トレーニングをすることも
功夫を養うのに役にたつ。

でも、体の部分ごとに効かせるウェイトトレーニングはよほどうまく
やらないと体の総合力が失われて、バランスが悪くなるし、
体を効かせる(部分的な力を使う)という動きになり、
ムキムキだけど接触してみるとあんまり力を感じないという
ことになりかねない。

功夫をつけることが護身術になる。
ようは「使える体」を維持しておくことなんだと思う。
人を襲う場合、相手が自分よりも強いか弱いかを無意識に判断する。
バランスがとれていて、筋力がある手強い相手なら、
それだけ襲われる確率が下がる。
さっきウェイトトレーニングを否定したけれど、
見た目にマッチョマンでムキムキだと、見た目が強そうなので
襲われる確率は下がるだろう。

通り魔は「だれでもよかった」と言いながら、
絶対に格闘技のジムに殴り込みにいかない。
路上で自分よりも弱そうな人に襲いかかる。

体のコンディションとしては、これでいいだろう。

次に必要なことは、自分の「心のレベルをあげること」

たとえば死後の世界は、魂のレベルに応じて往くところが違うという。
水と油のように、さまざまな魂の重さ、暗さ、明るさで異なるレベルの
魂は基本、混ざることがない。

なので護身術として出来る最高の事は、心の状態を調えることだと
いうことができる。
敵意には敵意が、
善意には善意が帰ってくる。

相手をやっつけてやろうと息巻いて歩いている人は、
人の反発を招きやすく、襲われることが多い。
それだけで余計ないざこざが増える。
柔和な人はそれだけでいざこざが少ない人生を歩むことができる。

そのためにできることは「瞑想」だ。
瞑想には、欲や怒りを少なくする効果がある。
それはつまり人とのトラブルが少なくなるということに繋がる。

護身術としての理想形は、
<とてもフレンドリーな対応をする人が、功夫のある身体を有している事>
だと私は考える。

普段、私はヨガの一環としてケトルベルなどの身体鍛錬や、
立禅、瞑想をしているけれど、
それには一石二鳥の効果があるということが、
こうやって文章化することで再確認できた。

理想的なのは武術家の身体をもった
僧侶のような心の持ち主だ。

って、それって嵩山少林寺じゃないだろうか。
自分の頭のなかのもやもやを文章にしてみると、自分の意識していなかった
理想がわかって面白い。

 

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Category: 未分類, 瞑想, 立禅

- 2016年10月4日

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