素顔になる瞑想

昔、体に眠っているクンダリーニというエネルギーに
ついて調べている時期があった。
体の奥底に眠る神秘的な力で、それが目覚めると
超能力が使えたり、悟りを開いたりできる、みたいな
ことを書いている本が多かった。

けど、結局「もっと凄い私」という目的に向って、
邁進するわけだから、それだと「大金持ちになりたい!」
とか「権力者になる!」という事と変わらないんじゃないか、と
思って冷めた。
そんな力が無かったら生きていけないのか?
それを必死に求めている、ということは、
それが無いと困る人間だということだ。
「無くても平気」という状態の強さには敵わない。

そして、もしスーパーパワー(金、権力)が手に入ったとしても、
それに依存してしまうんじゃなかろうか。
そういう力は私のものに思えるけど違う。
いわば「仮面」のようなものだ。

「私」というとき。
お金の世界に生きている人は
「(お金を持っている)私」という仮面をかぶっている。
権力の世界に生きている人は、「(政治家の)私」という仮面をつけて
話している。

賢さの世界、人格者の世界、芸術家の世界、、、
どんな力を誇ろうと、その仮面が顔にくっついて剥がれないのなら、
問題になる。

あなたは何を一番重視して自己評価をしているだろうか?
なにがあなたの仮面だろうか?
自分で自分にどんな役割を強いているだろうか?
社会は役割で動いているから、仮面をかぶる必要がある。
家族の前では父親、母親。
親の前では子供。
会社では社員などなど。
でも、それはあくまで仮の姿だ。

私たちの基本ポジションは「ただの存在」だ。
存在している。
これだけである。

瞑想をする、ということは普段の仮面を外し、
ただの存在として存在するという基本ポジションに
戻ることでもある。
瞑想は奇妙な世界だ。
サッカーをする人は「サッカーをする人」という仮面をかぶり、
ルールを守ってプレイする必要がある。
でも、瞑想には仮面がない。

瞑想は「瞑想をする穏やかな人」という仮面をかぶることではない。
「スーパーパワーをもった聖人のような私」という仮面をかぶることではない。
あらゆる仮面をかぶらないこと。
存在する、だけ。
瞑想の究極はこれだ。

坐禅(瞑想)をしても何にもならない!と言った禅師がいた。
まさに「何にも成らない」ことが瞑想の価値だ。

私はまだいろいろな仮面を引きずっているので、
推測でしかないんだけど、
役割や信念から派生する善悪の判断を超えた
彼岸の境地というものがあるとすれば、
ただ存在しているだけの境地だろう。

たとえば呼吸の瞑想のようにシンプル極まりない瞑想を
すると、共感性がまして思いやりが深くなる、という実験結果がある。
とくに「慈悲の瞑想」のようなことをしなくてもこうなるそうだ。
「ただ存在している」の状態に近づく効果かもしれない。

 

 

 

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Category: 瞑想

- 2015年2月12日

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