「立禅瞑想の可能性」立禅の可能性は2つに限定されているのか?

 

ボールを抱えたような姿勢で立つという
「立禅」(站樁功)という練習法がある。
もともと武術家が強くなるために編み出した
秘伝の練習法だったが、
王向斎という近代の天才がそれを体系化し、
大々的に公開し一般化したのが広まるキッカケ。

 

3175974
王向斎

 

いまでは気功としても認識されている。
王向斎は武術だけではなく、体の養生としても
立禅を使っていたので、気功だという認識も
あながち間違いではない。

王向斎の創設した武術「意拳」は、
「動かないことによって、強くなる」という
凡人には絶対にたどり着けない発想の「立禅」の練習法を
メインに据えるという嘘みたいな流派で、
じっと立っている練習ばかりしているのに、
数々の達人を生み出した。

この立禅を練習している人は、2つのカテゴリにわかれる。
1つは武術のためにしている人たち。
もう1つは気功として養生のためにしている人たち。

私の疑問は、
立禅が開拓するものはこの2つに限定されるんだろうか?ということだ。

立禅は軽く膝を曲げて立つので下半身の鍛錬にもなる。
動かないけど、静止するために筋力を使うので
体も鍛えられる(主に速筋が鍛えられる)
動かないけど、運動になるのだ。
心拍数を図ると、私の場合90前後になる。

中国にはこの立禅だけをして、
年老いても柔軟で機敏な動きをキープしている
達人がたくさんいるという証言もある。
食事を節制して、立禅をメインの運動にすえて、
ときおり走ったり自重トレーニングをしたりするという
体のメンテナンスで、そうとう高齢まで身体機能を
維持したまま過ごせると私は確信している。

科学的なエビデンスはない。
だけど、

武術的に立禅をしている日本の達人でも、
中高年であるにはかかわらず、若者を寄せ付けない
強さをもつ人がかなりいる。
立禅が身体鍛錬としてかなり優れているのは
さまざな人の人生が証明している。
(だから武術の流派のメインの練習法になりえるのだが)

で、この立禅を
瞑想をするために使えないだろうか?
気功なんてことはまったく念頭におかず、
「肉体鍛錬」「瞑想」の効果をねらって行えないだろうか?
いままでどうしても立禅というと私は気功として
とらえておこなっていた。
その枠組を外してまさに字のとおり「立っておこなう禅」として
おこなえないだろうか。

私が座ってしている瞑想は「アーナパーナサティ」という
呼吸瞑想で、意念(イメージ)を使わない。
呼吸や体の感覚を感じるだけのシンプルな瞑想だ。

アーナパーナサティは段階をおって瞑想が深めていく。

1,2,息の長短をそのまま感じる。
3、体の感覚を感じながら呼吸する
4,体を鎮めながら呼吸をする

瞑想が深まるにつれて、意識の焦点の対象を変えていく。
私の場合、あまりに集中できない日は1、2の呼吸を感じるだけで終わってしまう
日もあるし、調子がいいと4の体を鎮めながら呼吸をするまでいく。
(ちなみに次はピィーティ(喜び)を感じながら呼吸を
するという段階があるのだけど、
私はまだ一度もその段階には至っていない)

そのアーナパーナサティを立禅の姿勢で出来ないだろうか。
本来なら、アーナパーナサティは座った状態で深めていくのが筋なのだけど、
私の性質なのか、ずーっと座りっぱなしにしていると頭がぼんやりしてくるし、
集中力が続かない。
そうなると、ただ座る姿勢を維持するための努力を続けるための時間になる。
本来ならそうやって座る時間を伸ばしていけばいいんだろうけど、
そうなると運動の時間がとれない。
体を動かす機会がない現代人たる私としてはそれは困る。
運動の時間をとると、今度は瞑想の時間が減る。
歩く瞑想というのもあるけれど、立禅に比べれば運動強度的に
弱いし効果も薄い。
そうなると、立禅を瞑想に使うという手段が輝く。

そう考えて、立禅瞑想(言葉の意味がかぶっているような気もするけれど)を
試行錯誤中。
冬の北陸は家で出来る運動がメインになる。
春になる頃には、立禅瞑想できるのか?の答えが体感として
でていると思う。
というわけで今日から「立禅強化月間ときどきランニング」で
体と心のメンテナンスをしていこうと思う。
(それにしても私はつくづく「伝統をそのまま継承する」に不向きな人だと思う。
まあ、なんて伝統も背負ってないから問題ないけど、なにかしら自分なりにカスタマイズしちゃうんだよねぇ、、、)

 


Category: 瞑想, 立禅

- 2016年1月19日

コメントを残す

Your email address will not be published / Required fields are marked *