ディジュリドゥをうまくならない、深めたい







オーストラリアのアボリジニの伝統楽器たるディジュリドゥは、youtubeなどで検索してみると、
さまざまなスタイルがあることがわかる。
中でも、真似できないようなリズム感とテクニックで、人を魅了するプロ奏者の動画が多い。
それはそれでいいことだ。
でも、私はそれに関心がない。

私がディジュリドゥに求めているのはスピリチュアル的なものだ。
瞑想に深く入るためのツールとして、
自分の心身を癒やすための薬として、
ディジュリドゥを吹いている。

はじめて3週間ほどしかたっていないが、大分、自分の方向性が定まってきた。
テクニックには興味がない。
リズム感とかにも興味がない。
ただただ安定した心地よい倍音を出して、瞑想に浸りたいというのが、
私のしかいこと、らしい。

ディジュリドゥにはさまざまな音の出し方があるけれど、
ほとんど興味がない。
唯一、やりたいのは呼吸しながら息を吐き続ける循環呼吸で、
これは心地よい音を途切れさせずに吹きたいからだ。

以前、アシュタンガヨガをしていたときに至った境地だけれど、
ヨガや瞑想、ディジュリドゥを「うまくなりたい」というのは
すこし方向性が違う。
それよりも「深める」ものだ。
ただ単純な呼吸に意識を向けて、それを「深めていく」、、瞑想。
シンプルな倍音に意識を向けて、それを「深めていく」、、ディジュリドゥ。

こういう風にリズムととって、この音からこの音につないで、とかやっていると
頭が忙しくなって、瞑想に入れない。

シンプルを深める。

休みの日は2時間くらいディジュリドゥを吹いている。
おんなじことの繰り返し。
でも、深まっていく。
これが、一般的に言われる「基本」というやつだ。

シンプルなことをとことん深める。

もしもテクニックを持ちたい!と私の心が変わっても、
深めに深めた基本があるから、上達も早い。

50年ディジュリドゥを吹いている人の基本的な音と、
1ヶ月の私の基本的な音は、物理的にもしかして変わらないかもしれない。
しかし、心を見てみると、そこには天と地ほどの違いがある。

表面的なことには底があり、
内面的なことこそに深みがある。





 

 

 

 

 


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- 2022年6月23日

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