私的アーナパーナサティ瞑想の道筋と名色分別智

元囚人の偉大なトレーナーに「道」と「成果」というものを
再認識させられて、あらためて自分が日々おこなっている呼吸瞑想、
つまりアーナパーナサティの道筋を考えている最中、いままで気づかなかった
ことを発見した。

アーナパーナサティとは、呼吸に意識をむける瞑想で
16のステップを進んでいく方式をとる仏教の歴史ある瞑想法だ。
でも、現存している経典がシンプルすぎて、詳しい実践に関しては諸説分裂して、
ヨガの呼吸法のように呼吸をコントロールするやり方もあれば、
まったく呼吸はコントロールしないやり方もある。

そもそも私には、1から2のステップに進む基準もわらかない。
たとえば囚人トレーニング(自重トレーニング)ならば、
次のステップに進むためには上級者の基準をクリアしなければいけないけれど、
瞑想に関しては、そんな基準は存在しない。
だから、ある程度1のステップをしたら勝手にステップアップしていけばいいのか?
という疑問を考え込むことたびたびだった。

でも、最近「これだ!」いや、
たぶん、こういうことだろうという私なりの解の
アウトラインがハッキリしてきた。
当たり前だけど、あくまで一つの参考にしてください。

では、アーナパーナサティ。
まず最初のステップは、

1,長い呼吸を感じながら瞑想する

これが初歩だ。
呼吸をコントロールせずに、自然におこる呼吸にシンプルに意識をむける。
意識が、考え事や過去の記憶を追いかけ始めたら、それに気づいて、
また長い呼吸に意識をむける。

最初のステップはとても簡単で、だれにでもできる所からはじまる。
でも、これは奥深いステップだ。
やってみるとわかるけれど、呼吸に意識を向け続けるのは簡単ではない。
一瞬は簡単だけど、それを継続して、ずーっと呼吸の感覚を感じることは
熟練を要する。

そして、次のステップは、

2,短い呼吸を感じながら瞑想する

なんだけど、ステップ1の「長い呼吸」から「短い呼吸」へのステップアップの
意味がわからなかった。
要するにどちらも「呼吸」であって、いったいなんの意味のあるステップなんだろう?
という疑問。
じつのところこれは自然に深化していくステップなのだ。

瞑想のはじめ、日常生活から座って「1,長い呼吸」に意識を集中する。
荒くて、力強い日常生活を活動的に送るための呼吸(長い呼吸)を
感じていると、だんだんと日常を離れ、思考も少なくなり、
体が沈静化して、短く繊細でとぎれとぎれの呼吸に切り替わる瞬間がある。
これが短い呼吸だ。

これを目指して強制的にとぎれとぎれの呼吸にするのではなく、
脳が静まり、体がアーサナ(座法)で静まり、体の新陳代謝が低下して
全身が力強い呼吸を必要としなくなったことから、
結果的におこる現象だ。

だから、長い呼吸から短い呼吸へのステップは、
自然に行われる。
無理やり短い呼吸にコントロールすると瞑想は似て非なるものになってしまうし、
「よし!ステップ2にむけて努力するぞ!」と意気込むことも、
脳を興奮させて、結果的に努力が逆効果になってステップ1の長い呼吸から
抜けられなくなる。
たんたんと、なんの期待もなく、今の呼吸を見守るといつのまにか
呼吸の質が切り替わる。

ちなみに、私のような瞑想初心者はその日の体調やストレスの受け方では、
ステップ1の長い呼吸、日常生活の呼吸を感じるというステップから
2.短い呼吸を感じる、に移行できずに瞑想を終える日が多々ある。
でも、ステップ1を延々としているだけで、
瞑想の基礎である集中力が養成されるので、
これはこれで実に意味深い。

ステップ3からは、

3,体の感覚に意識をむけて呼吸する

呼吸という具体的な運動が「短い呼吸」よりさらに微細になり、
呼吸で気づかないうちに揺れ動いていた体が、ピタリと静止して、
より繊細に体の感覚がはっきりとわかるようになる。
この段階では、心と体のリンクがしっかり自覚できるようになる。

ゴエンカ式のヴィパッサナー瞑想では、一度リトリートを受けた
経験者は日々の瞑想では、ステップ1,2を飛ばして、
ステップ3から瞑想してもよいとされているけれど、
やはりステップ1,2を経ないで、ステップ3に行くのと
しっかり手順を踏んでからステップ3に行くのでは瞑想体験が
ぜんぜん違う。

実際に、正式な手順でここまで到達したのは
私の場合、リトリートで何日もかけてようやくだったりする。

この体の感覚に意識をむけて呼吸するの段階になると、
心の働きで、体の感覚が千変万化するのを体験する。
昔の記憶が蘇り、そうなると体の感覚がその記憶、感情に対応して
パッと発火する。
思考や記憶が、体にさまざまな感覚を千変万化の感覚を引き起こしている事
が自覚できる段階だ。

普段は、体の活動や呼吸などの外と中の運動で、
アバウトにしか感じない体の感覚が、ここでは繊細に
まるで全身が脳のニューロンとなったかのように感じる。
心、というものは脳だけに存在するのではなく、全身すみずみまで
心だと実感できる。

過去のトラウマなどは、独特な体の感覚となって現れる。
悲しみにはそれぞれ違った感覚の流れがあるし、
怒りには焼けるような感覚がある。
それをひたすら体感していくと、
深まっていくと、
次のステップが急に現れる。

4,体の感覚を鎮めながら呼吸する

だ。

私の場合、怒りの記憶とリンクして現れた体の感覚が
突如として消えた。
理由もなく、消える。
さっきまで具体的に体を痛めつけていた感覚が消え去るのだ。
これが「体の感覚を鎮めながら呼吸する」のステップ4の段階だ。

これが起きると、さっきまでその怒りの記憶とともに
生起していた体の中の燃えるような感情が消えてなくなる。
そうなると、思い出すたびに感じていた怒りの感覚が
一切わかなくなる。
純粋な記憶になって、いつでも参照できるけれど、
思い起こしても、ネタがわかった笑い話で心から笑えないように
感情的な燃え上がるものがほとんど無くなる。

面白いのは、過去に「よし、この人を許そう」と
自分で自分を言い聞かせて、なだめてOKとしていた記憶が
蘇ると、以前として怒りが沸いてくることだ。
つまり、意識的に「許したことにする」と蓋をしても、
心のエネルギー的には、ぜんぜん怒りが消えていなくて、
そういう抑圧されていた怒りが、本当の姿で浮かび上がっては、
怒りのエネルギーが解放されて、純粋なただの記憶として
流れていく。

すこしづつ、心の中から負の感情(煩悩)を呼び起こす
記憶が浄化されていく。

これを始めて体験した時、
こういう風に本当になんの抑圧も逃避もなく、
強力なパワーをもつ怒りや欲望などの煩悩エネルギーを
霧散させることができるなら、
このもっともっともっと先に、もしかしたら
悟りみたいなものがあるかも、と始めて、
具体的にその可能性を信じることができた。

ちなみにさっきも書いたけれど、
ステップ3「体の感覚に意識をむけて呼吸する」
ステップ4は「体の感覚を鎮めながら呼吸する」
は、瞑想リトリートという一日10時間も専念して瞑想できる
環境でしか体験しておらず、それ以来、まったくここには到達できていない。

そして、私の経験なんだけど、
ステップ4の「体を鎮めながら呼吸しよう」が深まると、
体が不動になって、力を入れているわけでもないのに
ガッチリとかたまって、その中を強剛な気のエネルギーが流れるような
感覚になってくる。
私の場合は、とくに右腕全体が強い気の塊のような感覚になった。

ここらへんでリトリートが終了したので、この先どうなるかは
体験していないけれど、
アーナパーナサティ経典を見ると、
「5,ピーティ(喜)を感じながら呼吸しよう」
というステップがまっているから、
私の場合は、全身が不動になって徐々に全身に強い気が流れる
感覚の先にピーティというものがまっているのだろうと推測する。
これは私の場合、またリトリートという特殊な環境で
瞑想に没頭しないと届かないのだろうと思う。

ステップ1から4までは、呼吸と体という具体的なものが対象だったけれど、
ここから先は心というものが対象になってくる。

最初の洞察智である「名色分別智」とは、
推測するに、この先にあるものだ。

この智慧は、物質は物質(色)として、精神的なものは精神的(名)なものと
して、完全に分別して体験できるという智慧で、
日常生活をおくる私の場合、これは混在して何か物質的なものか精神的なものか、
はっきり分けて理解できない。
無知のエネルギーが働いて、
混乱が日常になっている。

でも、瞑想で物質(体)が極限まで鎮まると、
濁った泥水を置いておくと、泥が沈殿して水と分離するように、
はじめてこの世の本当のありようが、実体験をして理解できる。
それまでは、目が見えない人に色を説明するようなものだった
智慧が、自分の実感として体験できる。

アーナパーナサティをしていくと、自然に体が静まって、
心と物質の分別が観えるようになる。

という推測をしている。

アーナパーナサティを深めていくことで、
最終的には悟りに達することは間違いない。
でなければ、ブッタがこの瞑想法を語ることはなかっただろう。
でも、それはヒマラヤ登山のような道で、
在家の私には、程遠い。
ヒマラヤへと続く道の途中、たぶん、在家の私が目指せる最高峰は、
最初の洞察智である「名色分別智」だと思う。

これらの考察は、自分が毎日瞑想していくために、
心が折れないための自分なりのロードマップだ。
瞑想の実践は、私の場合、この推測が正しいかどうかを
確かめるという好奇心にも支えられている。

ゆっくりゆっくり修行が進んでいく在家で、
アーナパーナサティを一生かけてやっていくためには、
やっぱりなんらかの心の支えがいるんだよね。

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Category: 瞑想

- 2017年9月9日

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