気のセンス

私がいままでの人生の中で一番の変化を実感したのは
ヴィパッサナー瞑想の10日間リトリート。
しかし、中にはあまり変化を感じない人もいることも
事実だ。
瞑想のたびに眠りこけてしまって、途中退場した人も
いれば、考えがぐるぐるまわって瞑想どころではないという
人もいた。
ある瞑想者の集まりにいくと、

「あんなところに行っても駄目だったから、
ここに来ているんでしょ?」

と代表者が話していた。
私は「いや、凄い変化と効果があったけど、、、
たまたま日程が合わなくてここに」
と思ったが「うんうん」と頷いている人もいるので黙っていた。

その会にいたヴィパッサナー瞑想体験者で、
ぜんぜん効果が感じられなかった人をみると、
背骨が曲がって座り方がなっていなかった。
その時は「ヨガをしていないからかなぁ」と
思ったが、
今では、もっと突っこんで、

「気を感じるセンス(気感)がないからだ」と結論している。

背骨が曲がっていたから詰まって、
気が流れにくかったから、瞑想も進まなかったのだ。

「気感」つまり気を感じる感覚。
彼らに無くて私にあったものは、
それだ。
私は20代の前半に、立禅の最中に
<気感>がでてきた。
ちなみにこの<気感>はちょっと練習すれば誰にでも
感じられるもので、とくに凄いわけでもない。
普通の現象だ。

いまになって思い出すのは、
ヴィパッサナー瞑想センターにいくために
迎えにきてくれた男性だ。
肌寒い日だったのに、ありえないくらい薄着だった。
私が驚いて聞くと、
「瞑想をすると寒さに強くなるんですよ!」
と言っていた。
これはその人の個人的な見解だけど、
よくよく考えれば瞑想をして寒さに強くなる、というのは
聞いたことがない。
けど、気功の世界だったらあるレベルまでいくと、
寒さに強くなるという現象は聞く。

そして、瞑想リトリートで9日、10日目に体感した瞑想の感覚で
一番の驚きは、過去の記憶とセットになって
浮かび上がってくるネガティブな感情エネルギーが
消えることだ。
消えてしまうと記憶は、ただの記憶になって
湧き上がる怒りや欲望は消えてなくなる。
これは、いままで謎だった。

けれど、そのネガティブな感情エネルギーの材料も<気>だと
したら、正常化したエネルギーの流れに打ち壊されて、
リセットされる、という説明ができるかもしれない。

瞑想の世界は<気>というか、
身体のエネルギーという概念を抜きにしては語れない世界だ。
「考えるな!かんじろ!」の世界なのだ。

ヴィパッサナー瞑想に参加して、根本的に変わった人と
一時的な変化に留まった人は何が違うのか。
極論する。
それは<気>のセンスがあるかないかだ。

肉体と心(考え)でしか瞑想を感じられなかった人よりか、
肉体と気と心の3つのレベルで瞑想できた人の方が
深い体験をしている。

現代は、身体と心、と2つの側面で人はわかれている。

「体操のヨガを夢中になってする人」は身体の側面を重視している。
「心理学や人生哲学に夢中になってしている人」は心の側面を重視している。
しかし、肝心なものが抜けている。
身体と心をつなぐ<気>だ。
瞑想は<身体>と<気>と<心>の3つの側面が統一
された状態でおこる。
すべてのテクニックはこれを目指している。

だから<気>の鍛錬である立禅をしていた私は、
大きな変化を体験した。
下準備ができていたからだ。

効果のある瞑想をしたい。
そのためには、ジャンルを横断してもなんでもありだ。
もしかしたら、座っていたら自然と気の感覚が生まれるかも
しれない。
でも、そんな悠長な時間は大抵の人にはないし、
現代の情報の洪水にさらされる生活はそういうセンスを育むような
環境ではない。
いろいろなもの組み合わせで化学変化をおこして、
加速させていくしかない。

 

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Category: 瞑想, 立禅

- 2015年1月31日

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