呼吸の瞑想がつくるライフ

呼吸の瞑想。
それはただシンプルに呼吸の感覚に
意識をむけるというもの。

しかしこれ、やってみるとわかるの
だけど、意識はあっという間に
いろいろなものに飛びついて、
呼吸から離れてしまう。

吸う感覚、吐く感覚の間。
「そういえば」
と心が喋り出す。
すぐに呼吸に意識を向ける。
嫌なことがあったイメージが再現されて、
そちらに気がそれる。
すぐに呼吸に意識を向ける。
「うん、今日は集中できん」
と心がしゃべる。
すぐに呼吸に意識を向ける。
反省することも呼吸から離れること。
「瞑想が深まってきたかな?」
心がしゃべる。
すぐに呼吸に意識を向ける。
瞑想を深めたいという欲望に意識を
向けることも呼吸から離れること。
すぐに呼吸に戻る。

たった数回の呼吸でも、
意識の焦点はさまざまなものに
ズレていく。
でも、それでも何度も何度も
ただシンプルに呼吸に意識を
もどすと、
だんだんと心のおしゃべりが停止して、
ただ吸って、吐いて、と呼吸だけに
純粋に意識が向けられている瞬間が
生まれてくる。
ただ呼吸をしている。

私の場合、この状態はまったく
長くは続かない。
すぐに「おっ、いい感じ」
などと心が喋りだし、
「この純粋な集中を続ければ
サマディなんだよね」と
解説を始めたり、色々言ったりする。
すぐに呼吸に意識を戻す。
その繰り返し。

こういうシンプルな瞑想をしてみると、
<自分が何に意識を向けているのか?>
けっこう自覚的になる。
いわゆる「気づき」というものが生まれる。

怒っているときなど、強力な感情に
飲み込まれている瞬間は、この「気づき」は消える。
「あっ、怒りの感情に飲み込まれとる!」と
気づくと、その影響が少し和らぐ。
怒りの感情と意識が一心同体になって「この野郎ッ」と
一緒になっていたのが、
物騒な相棒が「あいつはひどい奴ですぜ、信じられやせんぜ」と
訴えてくるような状態に分離する。
怒りを実行するためには、この相棒と同一化しないと
実行できない。
意識が何の焦点を当てているのか、ということに
気づいている状態に止まれば、怒りは少しずつ力を
失っていく。

呼吸の瞑想をして気づくのは、
いかに自分の中に嫌悪や欲望が多いか、という
こと。
でも、この気づきがなかったら、その嫌悪と欲望の
状態と同一化しているのが普通なので、
それに気づかない。
気づくということが、その悪影響を緩和して
改善していく。

呼吸の瞑想は座って、目を閉じておこなう。
呼吸に止まろうとする意識の前に現れるのは、
記憶、イメージ、言葉、心のさまざまな働き。

日常の生活では、私のまえに現れるのは
さまざまな風景や人々。
その対象に触れた瞬間、どんな感情が生まれるのか、
どんな思いが生まれるのか、ということに
気づいていると、それは瞑想になる。(すごく難易度高いけど)

昔のヨガの師は、基本的にエーカーグラ(一点集中)の状態に
あって、心は必要なときだけ使っていた、という記述を
グレゴールメーレの著書で読んだ。
つまりは食べるときは食べているだけで、
歩いているときは歩いているだけ、
感覚と体を制御するプログラムだけが起動している
状態で、人と会話したりするときだけ
心を起動させていたんではなかろうか、と推測する。

気づきをもったまま生きられる瞬間がある。
そのときに思うことは、生きるということは
「物事に対する反応」が大半だということ。

歩くときはさまざまな考え事、未来への期待などなど
心はフルに動きっぱなしで、いろいろなものを
目にするたびにさまざまな評価を下している。
スマートフォンの画面を見ながら歩いている人と
状態的には変わらない。
世界を見るフィルターは経験に彩られ、
さまざまな嫌悪と欲望で彩られている。
そしてそれに支配されている。

歩くとき歩く感覚に意識を向ける。
偉大な師は歩く時はただ歩く。
そういうふうに生きられれば平穏だろう。
私のような凡人でも、自分の意識の焦点が何に向けられているか?と

気づきを向けていくと、その心のフィルターの支配力は
弱まっていく。
心に支配されるのではなくて、
心を支配する状態にちょっとだけなる。
それはつまるところ
「瞑想中も日常生活も変わらない」ということだ。

瞑想中は目を閉じて、静かな場所に座って外部との
接触は断っていて、自分の中にある様々なものと
向き合うことになる。

日常生活は、外部と接触し、その
影響で千変万化する内部と向き合う。
状態は違うけど、心の働きに自覚的になると
それは瞑想になる。

そうなると瞑想が、生活の中で気づきを保つための
基礎になる。
座る瞑想、重要。

 

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Category: 呼吸, 瞑想

- 2015年2月27日

Comments

  1. はじめまして。
    数年前からBlogを拝見させて頂いています。
    今回勇気を振り絞ってコメントを書かせて頂いてます。

    私は自宅でヨガをしています。
    アサナがメインの教室は多く
    ヨガ哲学や呼吸や瞑想を教えてくれる先生が田舎のせいかいません。
    毎日拝見させて頂いて、勉強し、共感させていただいてます。

    私自身、やせて美しくなってモデル体型になりたい、
    不思議な格好のアーサナを出来るようになりたい、
    軟体になって中国雑技団に入りたい、そんな気持ちがまったくないです。
    身体が心を変容することは確かだし、アーサナをするのは大切ですが、
    いつも、心丸く穏やかに生きていきたいと思うだけの私が
    例え美しくアシュタンガフルプライマリーができるようになっても、心と身体の調和や人間の器が深く温かくなるのかな、と考えたら、疑問でした。

    ヴィパーッサナー瞑想のことも、Blogを拝見していて知りました。
    実践は難しいですね。
    でも、ありがとうございます。

  2. 結羽さんこんにちわ。
    お家でヨガ、いいと思います。
    ヴィパッサナー瞑想もすごくオススメなので機会があったらぜひ行ってみてくださいね。

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