楽しいが苦しいに対する瞑想

ひさしぶりに家族で旅館に行った。
加賀市にある粟津温泉「法師」だ。
温泉に美味しい料理と観光。
文句なしに楽しい一日だった。

だけど、休みが終わりに近づくと
だんだんと世界が色褪せていくような
感覚がある。

べつに仕事が嫌なわけじゃないけど、
楽しさの終わりが苦しい。

このまま家族みんなで延々と
温泉旅館をめぐって全国を旅したい気分だけど、
でも、そんなことは金銭的な面で無理だし、
もし実現できたとしてもただの現実逃避で、
人生の充実感もないだろう。

それに比べて、仕事が終わって次の日が休みの
あの前向きな感じはなんだろうか。
義務からの解放感だ。

休日というものが、それほど輝かしいのだろうか。
でも、無職で毎日が休日のときも経験したことが
あるけれど、いまのような嬉しさはなかった。

つまりこれは「楽は苦の種、苦は楽の種」という
やつなんだろう。

皮肉なことを書けば、
家族で楽しいという記憶が、家族を失う痛みを
増加させる。
もともと独りの人はけっして経験しない苦痛だ。

私は以前、ラブラドール犬をかっていた。
14年生きて、彼が死んだとき、
彼に対して感じていた愛情と喜びが
すべて痛みになった。
大事に思えば思うほど、喪失感は大きくなる。

となると、楽しいことがそんなに良いことだろうかと
いう気がしてくる。
悪いことも悪いだけではない気もする。

人生の達人は、楽しいことは楽しいと感じて、
しっかりと味わいながらも、それに執着せずに通りすぎさせる、
苦しいことは苦しいと感じて、
しっかりと味わいながらも、それに抵抗せずに通りすぎさせる人だ。

思えば、楽しい思い出を持続させようという抵抗が
楽しさの終わりの苦しみを増加させている。

呼吸の瞑想中に、ただ呼吸の感覚を感じて、
「この呼吸はいいとか悪い」とか識別せずに、
ただありのままの呼吸の感覚を感じるように、
楽しみにも苦しみにも瞑想をほどこせばいいのだ。

楽しい最中に「明日には仕事だ」とか
「もうこんな時間だ、時間がすぎるのが早い」
「明日も休みだったらいいのに」
などとぶつぶつと心の声を垂れ流しにしないで、
その瞬間の楽しい感覚を手放しに楽しめばいい。

苦しいときも苦しい感覚を手放しに味わって、
苦しめばいい。
かならずすべてのものは流れ過ぎる。

考えこみ過ぎる私には苦手なことだけど、
これを実践すれば立派な瞑想の実践だ。

 

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Category: 家族, 瞑想

- 2015年12月9日

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