偽の罪悪感をカットする

   

 

たとえば私が手を滑らせて、
人の壺を割ってしまったとする。
「なんてこった、、、」と罪悪感を感じる。

たとえば「これを3時間で仕上げてください」とやったことのない仕事を
依頼され、最善を尽くしたけど終わらなかったとする。
「人を失望させたかも」と私は罪悪感を感じる。

あなたにもこういう罪悪感の経験は無いだろうか?
私は結構罪悪感を抱える方で、すぐに「申し訳ない」と思ってしまう。
でも気づいたんだけど、こういう罪悪感は持つ必要がないんじゃないだろうか。

というのも、
私には壺を割るという悪意はなかったし、
始めてする仕事の能力が無いのは罪ではない。
大局的に人生を見てみる。

人生の総決算である死。
もしも魂的にものがあるとして、
そこで重要視されるのはなんだろうか?
肉体は滅び、金や物、あらゆる物質から切り離された私に
残るのは「心」だ。

ここはわかりやすく比喩的に書くけれど、
もしも死後に迎えにきてくれる神様がいるとしたら、
私が

「大企業の社長になりました。100億円は稼いだと思います」

みたいな報告は意味をなさない。
それはすべて外面的なもので、すでに死によって
滅んでいるし、物質的なものに執着の無い神に
とって無意味なものだ。
しかし、そこから一歩踏み込んで、

「私は社長として、会う人すべての幸せを願い、ビジネスの
側面と人を幸せにするという側面のバランスをとるように心がけてきました。
稼いだお金は慈善事業に費やし、すこしでも世の中の不幸を減らすために
生きてきました」

という「心がけ」の部分、人としての善良な心の資質には、
大きな関心と評価を与えるだろう。
凡人にとって心が不滅ならば、唯一の所有物である心が
善良な思いで満たされた人間だけが死後、価値が高い。
逆に悪行三昧で大金を稼ぎ、人を支配していた人は、
「心だけ」の状態になると一気に「心の貧しい人」になる。

だから、外面的な結果はほとんど無意味だ。
「死」という必ず訪れる場面で、無意味になるものに
重い価値を置く必要はない。
生きている間、とりあえず意味があるというだけのものだ。

それよりも、どんな「心」で生きたのかが大切だ。

最初の話にもどるけど、
色々あった感じの悪い日でも、実は「いい一日」だったという
ことがありえる。
「心」を整え、悪い行為をさせないという
五戒で今日の出来事をチエックしてみる。

五戒とは、仏教の生活するうえで守るべきルールで、

1,暴力をふるわない
2,与えられていないものを取らない
3,不道徳な性行為を行ってはならない(浮気をしない、快楽を弄ばない)
4,いつわりをかたらない
5,放逸の原因となり、(人を)酔わせる酒類、麻薬などを使用しない

という5つだ。
最初に書いた「壺を割った」「仕事が終わらなかった」は、
もしも私に悪意があったなら<暴力をふるわない>に抵触するけれど、
私には悪意がない。
感じの悪い一日だったけど、五戒はオールクリア。
まったく悪業を積んでいない「いい一日」だった。
たしかに人に迷惑はかけたけど、それは私のコントロール下には無い。
人は本質的に自分をコントロールできない存在だ。
壺を落とすつもりがなくても、落としてしまうこともあるし、
仕事を終わらせるようにがんばっても、終わらないこともある。
だから、「ごめんなさい」と謝ったらおしまいだ。
あとは事後処理が残るだけで、心の問題からは離れる。
壺を割らずに運ぶ方法を検討するのもいいし、
仕事を早く終わらせる方法を学ぶのもいい。
ただし、罪悪感抜きにして。

「世間的には悪いこと」とされていることでも、
大局からみると、どうでもいい問題だったりする。

ブッダは働かず、乞食で生きていた。
これは社会的にみると完全なるホームレスで問題だ。
でも大局からみると、心の世界ではブッタは智慧と慈悲の人で、
ブッダの生は偉大だ。
乞食を支える食べ物を提供していた人たちは、
「偉大な人の命を繋ぐ」という善行を積んでいたことになる。

罪悪感の裏側には「価値観」がある。
自分の心を動揺させることが起きたら
「いったい自分は何を信じているんだろうか」
とチエックしてみるといいかも。

私の根本的な価値観はヨーガ(仏教)だ。
人をなにかを信じずにはいられないから、
これらに依存して生きている。
だから人生はとてもシンプルだ。

 

 

 

 


Category: ヨガ的かんがえ, 生活を変える方法

- 2015年9月3日

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