コントロールとアクセプタンスの修練

 

物事をコントロールする流派と、
受け入れる(アクセプタンス)する流派がある。
目標をたてて自分の思い通りにする、と
あるがままで、の2つだ。

私は最近、この2つの狭間を漂っていた。
人生を受け入れざる得ないものでもある一方、
コントロール可能な部分もあることはたしか、
両方の流派はさかんに「こっちが正しい」と
私を勧誘してくる。

しかし、これはどちらか一方に偏れば解決することで
ないと、遅まきながら気づく。

コントロールできることはコントロールすべきだ。
しかし、コントロールできないことはアクセプタンス(受容)だ。

ニーバーの祈りではないけれど、

<変えることのできるものについて、
それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。
変えることのできないものについては、
それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。
そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、
識別する知恵を与えたまえ>

なのだ。

私の手の届く範囲は、積極的にコントロールすべきだ。
しかし、そこから離れたものは無抵抗にアクセプタンスする。

たとえば老化は避けられない。
中年になり老人になることに抵抗はしないが、
体の機能を維持する運動(コントロール)を手放してはいけない。

どうせ死ぬ身だからと、まったく考えなしに食事をしてはいけない。
きちんと体を健康的に維持する食事をとるコントロールする。
しかし、いくらちゃんとした食事をしても死ぬことは受け入れる。

諸行無常で、すべてのものは壊れてしまう運命にあることは
受け入れるけれど、住居や道具の
掃除や修理(コントロール)は手放してはいけない。

真実、人生の根幹には、コントロール不能(ドゥッカ)が横たわっている。
最終的には、すべてのもののコントロールは敗れてしまう。

私達は陸地なき大海原を飛ぶ鳥みたいなものだ。
最終的には、力尽きて海に落ちる。
それはアクセプタンス(受容)しようと思う。
だけど生きている間はしっかりと
羽ばたくのだ(コントロール)

瞑想の修練も、コントロールとアクセプタンスを
入り混ぜておこなう。

姿勢を正す、意識の方向性を定める、というコントロールは
手放さないけれど、
瞑想がおこるかおこらないかは手放してお任せする。
寝るようなものだ。
部屋を暗くして、布団にはいるところまではコントロールする
けれど、眠りがやってくるとこないかはお任せだ。

いま思ったんだけど、コントロールとアクセプタンスは
まさに陰と陽ではないだろうか。
太極図という陰陽のバランスがとれている図があるけれど、
まさに生き方の理想だ。

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アクセプタンス(受容)についてはこの本。
東洋的な瞑想的思想が、西洋人の説明がはいると
とてもわかりやすくなる。
おすすめです。


Category: ヨガ的かんがえ

- 2016年7月13日

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