一如の修練

若い頃から私は分裂している。やりたいことが一つに定まらないのだ。そして、その分裂は今も続いている。ほんとうはたった一つにするのがいいとわかっている、けれど、それができない。

この間、若い頃におこなっていた中国武術の老師が数年前に発売した武術のDVDをみた。そこには私がお世話になっていた先輩が、少し白髪になって出演していた。あの先輩は20年以上も武術を継続していた。私も続けていれば、今頃武術歴20年になっていただろうに、と思う。

後悔はある。今の私は何者でもない、でも、それと同時に何者でも無いから手に入れたものも多い。物事はそんなに単純ではないのだ。

たとえば、武術をあのまま続けていたら、ヨガを介して出会うことになった嫁には会えていない。瞑想もしていなかっただろう。やめることで得たことも多い。

デメリットで言えば、過去にいろいろな経験をしてその時々に「武術をする私」など発生した人格が複数あることだ。それぞれが「もっと時間をくれよ」と言ってくる。

仕事、家族、それぞれが重要な事柄が、私をさらに分裂させていく。この事態に手を打たなければ、私は流されるままに生きて、瞑想という一番重要なことを深めないままに死んでいくだろう。

そういう事態の解決策、それが「一如の修練」だ。
すべてを瞑想の修練にしてしまえばいいのだ。

たとえば、農作業をする、武術の型をする、ケトルベルをする、文章を書く、家族とキャンプをする、仕事をする、通勤する、歩く、息をする。これらはすべて別のことだと言える。でも、これらは一つだとも言える。

共通しているものがある。それは「感覚」だ。

どんなことをしていても、そこには「感覚」がある。その感覚に意識を置くならば、それは瞑想になる。仏教では感覚のことをヴェーダナーといって、重要な瞑想対象なのだ。

42歳になる私。人生折返し地点だ。十分に手を広げてきた。今度はさまざまな要素をすべて一つにまとめていく修練に入っていくのだ。すべてに瞑想が染み渡るようにしていく。

数珠が一本の糸で繋がっているように、すべてに瞑想の糸を通していく。そのまとまりがパワーになる。この社会で生きるには、さまざまなことが必要で、その分裂から瞑想は私を救ってくれるだろう。

すべてに気づきを置くと、必然的に、瞑想的でないことが減っていく。無理やり我慢してやることを減らすのではなく、気づきを持って生きることで結果的にシンプルな自分になる。妄想は荒唐無稽で、とんでもないところに自分を連れていくけれど、その結果である「感覚」はいつも正直なのだ。




Category: エッセンシャルヨガ

- 2018年7月9日

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