ブッダが刑務所にやってきた

 

ブッダの生まれ変わりだと称している人がいて、
その教祖様を信じる人がかなりの数にのぼるという
のは、すごく面白い現象だ。

そもそも「ブッダの生まれ変わり」という言葉自体が
矛盾していることを知らない人が相当いるんだろう。

ブッダはもう二度と生まれ変わらないからブッダなのであって、
生まれ変わるということはブッダではないということになる。
わかりにくい?

では、たとえ話。
無期懲役専門の刑務所で完全に更正したゴータマさんは
同房の囚人にこういった。

「私は完全なる更正を果たし、刑期は尽きた、もう二度と犯罪を
おかすことはない。ここに臭い飯を食いにくることはないであろう。
娑婆への扉は開かれた、耳あるものは聞けよッ!」

と高らかに宣言した。
妄想でない証拠に、たしかにゴータマさんの刑期は終わったようで、
看守たちはゴータマさんの出所のカウントダウンをはじめた。
この刑務所いらい初めての出所者なのだ。
看守たちも「こんな凄い人ははじめて」と絶賛しきりだ。

完全に更正した真人間=「初代模範囚」になったゴータマさんは、
「教えて!教えて!」という囚人たちに
完全なる更正に至る道と、それに至る更正生活を説いた。
ゴータマさんの教えに熱心に従うものはだんだん更正していった。
そして、とうとう「模範囚」と呼ばれるほどの更正し、
ゴータマさんと同じ次々と真人間になっていった。

ゴータマさんはのちに出所して、ゴータマさんに
付き従った「模範囚」たちも出所した。
残されたのは「出所のための方法」と「模範囚」になるべく修練を積む
集団と、応援する支持者たちだけで、
「ゴータマの教え」は、出所を目指す人々の光として、
長年に渡って、刑務所内部で引き継がれていった。

それから数十年。
ゴータマの顔を知る人々がすべて出所したり、死んだりした
刑務所に一人の男が看守に連れてこられた。

その男は天高らかにこう宣言した。

「我こそはかのゴータマ!かの尊き出所の教えをといた私が
臭い飯を食う貴様達のところに戻ってきたぞ。
私達は哀れな君たちを救うために、当て逃げ、食い逃げ、痴漢、窃盗、
賭博行為、傷害と殺人、あらゆる犯罪をおかしてきたのだ。
さあ、私に付き従え、出所に至る教えは再び説かれるであろう」
と自信満々いった。

ゴータマの出所の教えを知らない人は、その人の
自信ありげな様子と、口先八丁に魅了された。
自称ゴータマは、たちまち支持者を集めて、刑務所内で
一大勢力を築き、看守たちを巻き込んで、豪華な牢屋を
建設して、ピカピカ光る鉄格子の中でご満悦だ。

しかし、ゴータマの教えを知る囚人たちは
「なんで完全なる更正を果たし、刑期は尽きて、もう二度と犯罪を
おかすことはない初代模範囚がまた刑務所に戻ってくんの?
ありえないでしょ?」
と冷ややかだった。

模範囚に至る道を歩む道にとって、そんなことはどうでもいいこと
なのだ。

みたいなたとえ話でたとえられる。

悟ったときの決まり文句みたいのがある。
それは

「生まれることは尽きた。
清らかな行いはすでに完成した。
なすべきことをなしおえた。
もはや再びこのような生存を受けることはない」だ。

ブッダになる=生まれ変わる原因を滅ぼした
ということになる。
成仏した存在がまたなんでこの世に生まれて
信者を集めたりするんだろうという素朴な疑問。

もしも本当にゴータマブッダの生まれ変わりなら、
生まれることは尽きてませんでした、なすべきことはありましたと
いうことになり、ブッダの教えそのものが間違いだったという
ことになり、ブッダの価値は大暴落だ。

どちらにしても、説明しがたいんだけど、
そこをなんとか納得させて、信仰させるって
それはそれで凄いことだと思う。

そういうことがまかり通るということは、
やっぱりマトモな世界ではなく、
ここは巨大な刑務所なのかもしれない。

 


Category: 仏教

- 2016年5月16日

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