瞑想スイッチと呼吸法スイッチ

プラナヤマ(呼吸法)は瞑想に入る際、助けになる。
でも、それは呼吸をコントロールする、という
すべてを受容する瞑想とは逆のアプローチだったりする。

呼吸瞑想の際に、自然と瞑想が深まるにつれて日常の呼吸から
途切れ途切れの微妙な呼吸に変わっていくのだけど、
「おっ、きたきた!」と嬉しくなると、
自然な受容の意識が、意識的にコントロールするぞ!という
意識に上塗られて、あっという間にそれは逃げていく。

呼吸のコントロールは瞑想に入るまえの準備として利用すると
有効だ。
自然に瞑想に入ったとき、瞑想が深まる速度があがる。
でも、コントロールする対象も瞑想する対象も「呼吸」だと、
コントロールと受容(瞑想)の切り替えが難しい。

あれこれ試行錯誤してみて、
最近はバカみたいに簡単な答えに行き着いた。

スイッチを別にすればいいのだ。

プラナヤマは呼吸をコントロールする。
そのために一番効率的な方法は腹式呼吸だ。
クンバカ(止息)するときに意識するのもお腹だ。
ということは、プラナヤマをしているときの
意識の座は「お腹」ということになる。

一方、ゴエンカ式のヴィパッサナー瞑想が基本にある
私の瞑想の最中の基本的な意識の座は、
鼻の下周辺だ。
呼吸をコントロールする筋肉ではなく、
鼻の周辺の肌感覚で、自然な呼吸の出入りを感じる。

プラナヤマ(呼吸法)のスイッチはお腹
瞑想のスイッチは鼻の下

とわけると、かなりコントロールと受容の混合が防げる。
何故、こんな簡単なことに気づかないのだろう、と
思うけれど、そういうことは結構ある。

もう一つ最近解決したことがある。

「瞑想に目標はいるのか?」

という問題があった。
目的を持って瞑想に挑むこと自体がエゴを増大させる行為で、
「◯◯になろう」という世界から出ることは出来ないという
話なのだ。
だから瞑想に目標はいらない、、、、などという人がいて、
なるほど、でも、と思っていた。

これも解決すれば簡単な話だった。

目標がなかったら瞑想しないから、
瞑想に入るまでは目標は必要。
でも瞑想に入ったら、ひたすらな受容が求められるので
瞑想の邪魔になるのでいらない、という話なのだ。

いろいろな行動があるとして、瞑想をする動機がないと
瞑想しない。
「座禅をしてもなんにもならない」「無所有である」と
聞くと、私のような凡人は

「なーんだ、なんのメリットもない行動ならする意味ないじゃん」

と思って、だったら映画でも見るか、とだらけてしまう。
だから日常意識のときに、

「瞑想をすると脳が変わり、苦しみをもたらす欲や怒りが減っていって
人生を楽に生きられるようになるから瞑想するといいことあるよ
体を鍛えるように、瞑想で脳と心が鍛えられるのだ」

と聞くと「そうか、一つ瞑想してみっか」と思うのだ。
結果、映画を見ることを選ばずに瞑想をすることになる。
欲や取らぬ狸の皮算用で瞑想をはじめてもいいと思うのだ。


Category: 瞑想

- 2018年3月18日

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