無意味な世界の価値あるもの

 

この世のあるものはすべて変化するという
ことは、この体もいずれ土に還ることは確定されている。
目につくすべてのものは姿をかえてしまう。
こうしてキーボードを叩いているMacbookも、
私の体を雨風から守ってくれている素敵なお家も、
愛する家族も、100年もたたずにすべて地上から消えてしまう。
無意味ではないか。
人生のどこに意味があるんだ。

けれど、たとえば物質として家をみると、
そこにはただ変化する物質だけに見えるけれど、
違うこともある。

私の家は石川県の小さいけど凄い工務店である
TAKATA建築さんに建ててもらった。
一棟一棟、しっかりとコンセプトをもって施主に寄り添って
家を創ってくれる会社で、家にこめられているものが違う。
設計してくれた人たちの思いやり。
建ててくれた大工さんの技の痕跡。
ただの物質である家にそれが宿って、価値あるものに
している。

人生に価値をつけるのは「心」だ。
家を例にとっても、ただお金儲けのために量産された家と
心がこめられた家では価値が違う。
その価値の源泉は、
私が思うところではそれは「智慧」と「慈悲」の心だ。
知性と思いやりの心と言い換えてもいい。

人生に価値ももたらすのは、
この2つだけだろう。
あとはすべておもちゃのような、ゲームのようなもの。
「智慧」と「慈悲」のない人生は、いくら物質的富が山の
ようにあっても、空虚さから一歩も外にでられないだろう。

智慧というのは、理解する力だ。
ただ知識があるだけで智慧のない人もいる。
慈悲というのは、思いやりと共感の心だ。
この2つは繋がっている。

智慧の門から道を進んでも、慈悲に行き着くだろうし、
慈悲から行っても智慧に行き着く。

すこしでもマシな人間になれるように歩いていこう。
現在のところ、私には智慧も慈悲も足りていない。
無いというところに気づければ、そこがスタートになる。
「私は完全なる善人」と思い込んでいる人が一番怖い。
正義は私にあるという人は危険なのだ。

そういえば以前、ミステリーかと思って
レンタルした映画のことを思い出す。
娘を虐殺された父親が異常な執念をもって
容疑者の男を拉致して、娘の復讐をするという内容。
凄惨な拷問シーンがあったりで、
そういうのが苦手な私は早送りで見た。
その映画をみているときに、共感したのは捕まった容疑者の
方がった。
彼はどうも無罪っぽい。
必死におれじゃないと訴えるけど、異常な執念に取り憑かれた
被害者の父親は聞く耳を持たず、拷問を続けるという恐ろしい
シュエーション。
絶対にこんな状況にはなりたくない。
容疑者は善人に見えるし、被害者の父親はモロに異常者に見える。
見ている私は「なんとかこの悲惨の状態から脱出してくれ!」と
ハラハラしっぱなし。
しかし、最後の最後に一気に観客の意識は反転する。
あんなに悲惨な目にあって善人そうに見える容疑者が、
実は真犯人で、異常者にみえる加害者の父親の復讐は
人違いじゃなかったとわかるのだ。
一瞬「あ、あの復讐はありだったんだ」と思えた。
正義は父親にあると思えた。

しかし、これは怖い考えだ。
正義のフィルターは、
復讐すべき「悪」には何をしてもいいという残虐性に結びつく。
してはいけないことはしてはいけないこと、という
あたりまえが、魔女や犯罪者や敵国の人間、テロリストという
レッテルを張られた瞬間にOKになる性質が人間にはある。
正義の名のもとに行われた残虐行為が一番怖いし、
そういうことは大義名分のもとにおこなわれる。

智慧と慈悲は、それと対極にあるものだ。
日常に生きていたら、そうそう人に残虐行為を行使することなんか
ないけれど、冷たい言葉で人を傷つけることもあるだろう。
そういうとき、やっぱり「正しいのは私」という思いがあって、
言葉で人を傷つけてもいいと考えてしまう。

自分の行為に注意してみると、智慧と慈悲の不足に気づける。
人に忠告しないといけない状況がある。
そんなときはくれぐれも智慧と慈悲にしたがったやり方を
しようと最近、心がけている。
無意味な世界に意味をもたせるのは心だ。
智慧と慈悲の心を忘れずに。

 


Category: 仏教

- 2016年6月7日

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