なにがどうあっても変わらない悩み

 

悩んでいる人と話した。
強面で職人気質の上司の罵倒するような指示に
もう耐えられないという話だった。

その人はかなり落ちこんでいたので、
同感して、ただ話を聞いた。
「大変だよなぁ、それはわかるよ、そんなこと言われたら
落ち込むよなぁ」と。
痛みの共有化だ。

しばらく話を聞いていると、
悩んでいる人は少しは気が紛れたみたいで、ちょっとだけ
前向きなことを話はじめた。
私がその人の悩むを消す、なんてことは出来ないけど、
悩みを理解している人間がいるということが心の支えになればと思った。

その人と別れて、時間がたって
一人になって考えた。
その人の悩みが消える日は来るのだろうか?
ふと「悩むことは当たり前の状態だ」と気づいた。

ブッダは、絶対に不変の真理を説いた。
その中に「苦諦」がある。
「すべての物事はドゥッカ(苦)である」という真実だ。

ドウッカには「不満、不安定、コントロール不能、苦しい」という意味があり、
生まれることも、老いることも、病むことも、死ぬことも(生老病死苦)
愛する対象と別れること(愛別離苦)
憎む対象に出会うこと(怨憎会苦)
求めても得られないこと(求不得苦)
さまざまな感覚や概念に執着すること(五蘊盛苦)
すべてドゥッカだ。
コントロール不能で、苦しい。
人はこれらの苦に敷き詰められて四苦八苦しながら生きていく。

だから、悩んでいた人の「憎む対象に出会うこと」が解消されても、
また新たなるドゥッカ(苦)に悩むことになるだろう。
ほぼ100%あたる予言だし、
私も同じく思いがけない悩みをかかえることになるだろう。

「悩みのない状態」というのがレアでほとんど奇跡に近い
状態なのだ。
傍からみたら「あの人は悩みが無さそうでいいなぁ」という風に見える人なら
いるだろうけど、
「心の底から悩みが無い」という人は悟った人以外まずいない。

つまり
「悩んでいるというのが人類共通で生まれながらの設定」
くらいに考えておけばいい。
悩みがでてきてビックリすることもなくなる。
「悩みが解消しても、また他のことに悩むことになる。
悩んでいて当たり前」くらいに考えて、
悩みが無いという奇跡的な人生状態を望まないのがいい。

これは厭世主義とは違う。

<アラスカは寒い>というのが事実だと受け入れるのと同じだ。
「もしかしたらTシャツと短パンで過ごせる日が来るかも」という
あらぬ希望を持って、ブリザードを恨めしく思うよりも、
寒いことを前提に防寒にいそしむほうがいい。

もしくは、それを超越する道を歩むか。

ブッダの苦諦は、4つの真理がセットになっている。

  • 苦諦(くたい) – 一切は苦であるという真理
  • 集諦(じったい) – 苦には原因があるという真理
  • 滅諦(めったい) – 苦は滅するという真理
  • 道諦(どうたい) – 苦を滅する道があるという真理

これは環境を変える、というよりか根本である「心を変える」道だ。
ブッダも老いて、病んで死んだ。
苦諦という環境からは抜けることはできない。
でも、それをどう感じていたのか、ということは常人とはまったく違う。
ブッダも罵られ、あらぬ非難をされた。
でも、それをどう感じていたのか、ということは常人とはまったく違う。

まわりの人や環境を変えるよりも、
自分の心を変えることのほうが根本的解決なんだよなぁ、と
思うこの頃。
結局、それがヨーガなんだ。

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Category: ヨガ的かんがえ, 生活を変える方法

- 2015年9月21日

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