食べれば食べるほど苦しいドーナッツ

苦痛に耐えられる人が、欲望にあっさり陥落することがある。
私の場合、
真冬の水シャワーや運動の苦痛には
ある程度耐えられるけれど
欲望にはそれほど強くない、という自覚がある。

最近は休日になると、どう考えても体にはよくない
チョコレートドーナッツが食べたくなる。

以前はコーヒー中毒で、一日は5杯から10杯は飲んでいた。
いまはバッサリとコーヒーは止めたんだけど、
それは精神力が強いからではなくて、
一杯飲んでしまったら、ズルズルとコーヒー中毒に
引きこまれてしまうから怖くて飲めないからだったりする。

自分の弱さを知っているから、
自分を試すようなマネはしない。
そもそも、余計な欲望は持たないに限る。

欲望を叶えることが、人生の至上命題であるかのように
宣伝する企業が多いけれど、
欲望は「あれが欲しい」と取り憑かれた瞬間に、
苦しみの感覚が体に生まれる。
「叶えられなくて苦しい」という感覚だ。
それが人をその欲望に突き動かす。
欲望がうまれて、それを握りしめた瞬間から
苦しみがはじまる。

欲望はあればあるだけ苦しい。
そして、欲望がかなえられるとその苦しみが一瞬、消えて
解放された気分になるけれど、
欲望はさらなる欲望を生む。

これをタバコに例えると、
タバコが吸えなくて苦しいからタバコを吸って楽になる。
でも、タバコを吸うことでさらにニコチン中毒になるという
悪循環が待っている。

欲望や嗜好品の悪循環のループはみな同じ原理の罠だ。

この仕組を理解すると、欲望の罠から抜けられる可能性が高まる。
20代に私は禁煙セラピーという「タバコを吸うことはこんなに馬鹿げていて、
やめるのは簡単です」という内容の本で、ニコチン中毒からぬけだした。

タバコを止め始めは、すこしの苦しみがあったけれど、
それからもう十数年、タバコの苦しみとは無縁の生活が送れている。

セブンイレブンのドーナッツはお手軽に変えて、そこそこ美味しいけれど、
ドーナッツの苦しみの連鎖に嵌り込む前に、完全に手を切ろう。
その対策を考える。

1,ドーナッツが欲しいという欲望のエネルギーが心に生まれたら、
拒絶せずにそれを
しっかりと感じる。

ドーナッツを食べたい、どこにセブンは無いか?という考えではなく、
その考えを生み出すエネルギーである欲望が体を駆け巡る感覚に意識を
向ける。そうすると、その欲望が過ぎ去っていく場合が多い。

 

2,代用品を考える

もはや悪習慣になってしまっている場合、それをより無害なものに置き換えるという
方法がある。
ドーナッツが食べたい、という苦しみが去らない場合、もしかしたら
体が飢えているのかもしれない。
コンビニに足が向いてしまったら、ドーナッツではなくて
ドライフルーツかバナナを買うことにする。
同じ甘味だけれど、害がすくないものに置き換える。

これで健康的な食生活に戻ろう。
と書いていて、
「ドーナッツも食べられないなんて楽しみがなくて非人間的なのでは」と
私はちらっと思ったけれど、
ドーナッツを欲して、その苦しみを抱えたままセブンイレブンにむかって
いくことを楽しみにするよりも、
もっと健全で苦しみをもたらさない楽しみに置き換えよう。

たとえばドーナッツを食べると、過剰な糖分と粗悪な油で
体のぼんやりする。
ドーナッツを食べないことで、すっきりとクリアな状態を維持できる。
健康な状態が維持できる。

これはブッダの言葉として残っているんだけど、
この世で得られる最高の利益は「健康」だという。
たしかに、たとえ私は1億円もっていても、不健康ならば
まったく台無しだろう。
「健康に生きている」ということは、
失われるまでその価値を理解できないけれど、
一端、病気になると何にも代えがたい宝に感じれる。

健康度が高まることは、そのまま利益なのだ。
ドーナッツという偽の喜びは捨てて、
健康のスッキリ爽快なメリットを甘受するために、
ドーナッツはやめよう。
これが私の夏の目標。


Category: ヨガ的かんがえ

- 2016年7月29日

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