アクト・オブ・キリング

 

 

「アクト・オブ・キリング」というドキュメンタリー映画を見終わった。
心底「日本に生まれてよかった、、、」と思った。
インドネシア、めちゃくちゃ。

「アクト・オブ・キリング」の題材は「虐殺者」
インドネシアでは、過去100万人規模の大虐殺がおきている。
普通、こういう事件の当事者たちは糾弾されて罪に服していそうな
ものだけど、その逆。
なぜなら、虐殺をおこなった権力はいまでも力を持ち、
インドネシアでは過去に大勢の人を虐殺した
殺人者たちは「共産主義者を滅ぼした英雄」として
罰されることなく、殺しで得た富をもち豊かに生きているからだ。
被害者の遺族は、いまも怯えながら「加害者の国」で生きている。
まじでありえん。

監督は、この事件の被害者を取材しようとしたが、
加害者政権から取材NGがでる。
しかたなく加害者側に話を聞くと、殺人者たちは自分たちのおこなった
虐殺を嬉々と語るのであった。

この映画の妙はここにある。ひとひねり。
そんな殺人者に
「あなたがおこなった虐殺をもう一度演じてみませんか?」と
もちかけたところから始まる。
殺人者たちは映画スター気取りで虐殺の映画作りをはじめるのだ。

殺人者の一人、アンワルは殺し方を実演してみせたり、
当時の仕事場(大量殺人現場)で、踊るくらい
ノリノリだ。

ジョシュア監督は、どうやったのか知らないけど、
すっごくアンワルたちに入り込んでいる。
普通、部外者がいるところではしないような話まで
収録されているし、
アンワルたちに対して
「おまえたち悪行を反省しろ!」説教していない。
むしろ「虐殺を映画にしましょう」と加害者側に立っているかの
ように見える。

アンワルたちの映画は最後、
殺された被害者から、
「私は処刑して天国に送ってくれてありがとう。
1000回感謝します」
と金メダルをかけられるところで終わる。
アンワルのありえない夢物語だ。

しかし、この映画は一筋縄ではいかない。
映画を作ること自体が、殺人者たちになされる心理療法なのだ。

アンワルたちは孫がいる歳になってから、
あらためて自分たちの行為を客観的にみたり、
逆に被害者の役を演じて、自分が他人に与えた
恐怖の一端を追体験してみることで、だんだんと
ノリノリだった殺人者たちの顔が曇り始める。

映画を見て思ったのは、
人がもつ抜きがたい良心の存在。

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左がアンワル

アンワルは、なんの説明もなければただの気のいい
おじいさんにしか見えない。
孫を抱きしめる好々爺の側面も持つ。
けして冷酷なサイコパスには見えない。

どこにでもいるように見える。
決して特殊な異常者には見えない。

アンワルはなんとか虐殺を正当化して生きてきたように
私には見えた。
殺人をおこなった夜は罪悪感から逃れるために、
アルコールとドラッグでハイになる。
年老いた今でも悪夢をみる。
1000人以上殺した人間にも良心があり、
無意識化では自分が「罪人」であると感じている。
映画では、それが表面化する。
人間ってなんだろう。
仏にも悪魔にもなる可能性を持つ。
極端な可能性をもつ存在。
だからこそ、
あらためて「教育」が大切だ。
人を変えるのは「教育」だ。
教えが人を悪魔にも仏にもする。

映画では、最後にアンワルの抑圧していた良心が
表面化して心身に異常をきたす。
あれも教育だったのだ。
いろいろ考えさせられた映画だった。

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Category: 未分類, 読書

- 2015年7月5日

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