マイお経のすすめ

お寺で聞くお経は現代人には意味不明だ。
漢字の羅列で、ちゃんと勉強していないと
理解することができない。
意味不明で唱えても、効果は薄いだろう。

実は私もお経を唱えている。
それは、ダンマパダやスッタニパーダから
自分に響く言葉をチョイスした「マイお経」だ。
中村元先生の訳は、とてもわかりやすく漢字で唱えるお経よりも、
心に断然響く。
私はそれを瞑想の前や後に唱える。

これは、最初の頃はあんまり効果がないけれど、
何回も何回も唱えていると、だんだん暗記してくる。
暗記してくると、日常のパッとした瞬間にブッダの言葉が
蘇る。

たとえば、理不尽なことで非難された時。
ブッダの言葉がよみがえる。

「アトゥラよ。これは昔にも言うことであり、いまに始まることでもない。
沈黙している者も非難され、多く語る者も非難され、
すこしく語る者も非難される。世に非難されない者はいない。
ただ誹られるだけの人、またただ褒められるだけの人は、
過去にもいなかったし、未来にもいないであろう、現在にもいない」

これで私の心はスッと冷静になる。
もしもブッダの言葉が蘇らなかったら、
「どうしてこんな理不尽な非難をされないといかんのだ」と
ぐるぐると思考がまわりだして、心のおしゃべりは
やまないだろう。
でも、ブッダの言葉が「生きるうえであたりまえのことだよ」と
目を覚ましてくれる。
そういえばブッダも謂れ無き非難をされた。
完全に悟った人でさえ非難されるのだから、いわんや凡人の私ごとき
非難する人がいて当然だ。

「智慧の言葉」が脳に入っている。
これは大きい。
暗記したお経はどんな時にでも再現できる。

ふと、中国の強制収容所に収監されて地獄のような日々を
体験したチベット僧たちの心の支えにお経はなっていたんじゃ
なかろうか、と思った。

なにもかも没収されて囚人服を着せられても、
暗記した経典は没収できない。
私なんかと違い、チベット僧は何十という経典を
暗記しているだろうから、過酷な状況を支える言葉が
頭の中にたくさんストックされていることになる。
社会復帰してもチベット僧たちはひどいトラウマに悩まされないという
のは「瞑想」と「経典」の力によるものじゃないだろうか、と
思った。

一体、あなたはどれくらいの重要な言葉を暗記しているだろうか?
お笑い芸人のネタの方が暗記できている、というのが現状ではなかろうか。
しかし、過酷な状況で

「安心してください、履いてますから」

という言葉を思い出しても、、、、いや、ちょっと心がリラックスするか、、、、

ちなみに私が唱えている「マイお経」
大乗寺の早朝坐禅に100日ほど参加したときに体得した
お経の低音での棒読みのようなイントネーションで唱えている。
長く呼吸を吐くので、呼吸法としてもグッド。

 

1 ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも汚れた心で話したり行ったりするならば、苦しみはその人につき従う。──車をひく()の足跡に車輪がついて行くように。

2 ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも清らかな心で話したり行ったりするならば、福楽はその人につき従う。──影がそのからだから離れないように。

3 「かれは、われを罵った。かれは、われを害した。かれは、われにうち勝った。かれは、われらから強奪した。」という思いをいだく人には、怨みはついに息()むことがない。

4 「かれは、われを罵った。かれは、われを害した。かれは、われにうち勝った。かれは、われらから強奪した。」という思いをいだかない人には、ついに怨みが息む。

5 実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息むことがない。怨みをすててこそ息む。これは永遠の真理である。

6 「われらは、ここにあって死ぬはずのものである」と覚悟をしよう。──このことわりを他の人々は知っていない。しかし、このことわりを知る人々があれば、争いはしずまる。

50 他人の過失を見るなかれ。他人のしたこととしなかったことを見るな。ただ自分のしたこととしなかったこととだけを見よ。

55 一つは利得に達する道であり、他の一つは安らぎにいたる道である。ブッダの弟子である修行僧はこのことわりを知って、栄誉を喜ぶな。孤独の境地にはげめ。

116 善をなすのを急げ。悪から心を退けよ。善をなすのにのろのろしたら、心は悪事をたのしむ。

123 生きたいとねがう人が毒を避けるように、ひとはもろもろの悪を避けよ。

133 荒々しいことばを言うな。言われた人々は汝に言い返すであろう。怒りを含んだことばは苦痛である。報復が汝の身に至るであろう。

159 他人に教えるとおりに、自分で行なえ──。自分をよくととのえた人こそ、他人をととのええるであろう。自己は実に制し難い。

160 自己こそ自分の主である。他人がどうして自分の主であろうか? 自己をよくととのえたならば、得難き主を得る。

178 大地の唯一の支配者となるよりも、天に至るよりも、全世界の支配者となるよりも預流果となるほうが優れている。

183 すべて悪しきことをなさず、善いことを行ない、自己の心を浄めること、──これが諸の仏の教えである。

185罵らず、害さず、戒律に関しておのれを守り、食事に関して適切な量を知り、寂しいところにひとり臥し、坐し、心に関することにつとめはげむ。これがもろもろのブッダの教えである。

186たとえ貨幣の雨を降らすとも、欲望の満足されることはない。快楽の味は短く苦痛であると知るのが賢者である。

223怒らないことによって怒りにうち勝て。善いことによって悪いことにうち勝て。分かち合うことによって物惜しみにうち勝て。真実によって虚言の人にうち勝て。

227 アトゥラよ。これは昔にも言うことであり、いまに始まることでもない。沈黙している者も非難され、多く語る者も非難され、すこしく語る者も非難される。世に非難されない者はいない。

228 ただ誹られるだけの人、またただ褒められるだけの人は、過去にもいなかったし、未来にもいないであろう、現在にもいない。

237汝の生涯は終わりに近づいた。汝は閻魔の近くにおもむいた。汝には、道すがら休らう宿もなければ、旅の資櫃も存在しない。

238だから、自己のよりどころをつくれ。すみやかに努めよ。賢明であれ。汚れをはらい、罪過がなければ、汝はもはや生と老いとに近づかないであろう。

277 「一切の形成されたものは無常である」(諸行無常)と明らかな知慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。

278 「一切の形成されたものは苦しみである」(一切皆苦)と明らかな知慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。

279 「一切の事物は我ならざるものである」(諸法非我)と明らかな知慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。

282 実に心が統一されたならば、豊かな知慧が生じる。心が統一されないならば、豊かな知慧がほろびる。生じることとほろびることとのこの二種の道を知って、豊かな知慧が生ずるように自己をととのえよ。

328 もしも思慮深く聡明でまじめな生活をしている人を伴侶として共に歩むことができるならば、あらゆる危険困難に打ち克って、こころ喜び、念いをおちつけて、ともに歩め。

329 しかし、もしも思慮深く聡明でまじめな生活をしている人を伴侶として共に歩むことができないならば、国を捨てた国王のように、また林の中の象のように、ひとり歩め。

330 愚かな者を道伴れとするな。独りで行くほうがよい。孤独(ヒトリ)で歩め。悪いことをするな。求めるところは少なくあれ。──林の中にいる象のように。

333 老いた日に至るまで戒しめをたもつことは楽しい。信仰が確立していることは楽しい。明らかな知慧を体得することは楽しい。もろもろの悪事をなさないことは楽しい。

 


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Category: ヨガ的かんがえ, 生活を変える方法

- 2015年9月28日

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