武術と暴力と瞑想と(1)

心の片隅には武術への関心がある。
20代の頃は八極拳(中国武術)にハマっていた時期があって、
体の運用のベースは、いまでもその頃の影響が残っている。
なんにでも飽きやすく、何事も長続きしないということだけが長続きしている
私は、40歳にして何故かまた八極拳の錬功をしている。

きっかけは、
職場の先輩に「伝統派空手をやっているんだが、どうだ?見学にこないか?」
と誘われたことだ。
私は内心、即座に<やっても続かなかったリストを長くすることになる>と
思い、いやー、うーん、などと返事を濁した。
でも、じつは興味があって、それから船越義珍や沖縄空手のことを
調べていったら、型に込められた意味をあらためて再認識することになった。

武術に伝わる型は、昔の達人の身体動作が凝縮されたタイムカプセルなのだ。
それを繰り返し練習することで、現代の私達にもその型にこめられている理が
体に宿る。
空手の元になった、沖縄武術の「手(ティ)」はもともとは沖縄武士の
たしなみで、夜に先生とマンツーマンで型を伝授されて、ひたすらに型を繰り返す
という練習をするのが修行ということだった。
現在のような自由組手やスパーリングなどは無い。
ほとんど型の練習に終始する。

私がかじった八極拳も型の練習がメインだった。
対人練習は手順を決めた約束組手しかなかった。

そう書くと、試合がないなんて実戦的じゃないと
思う方もいるだろうけれど、
伝統的な武術で、昔から組手をしている武術は
私が知る限り無い。
それには理由がある。

たとえば八極拳を例にとると、蹴り技は相手のスネや膝か
金的を蹴る技しかない。
膝関節が曲がらない方向に蹴り込むので、
決まれば関節が破壊される。
他にも、
体当たりのような肘打ち。
手刀で喉を突く。
目突き。
ボクシングでは禁止されている両手を使った攻撃。
大怪我につながる攻撃のオンパレードだ。

これを実際に相手に試すために学ぶとしたら、
やはり型を分解して、やる動作を決めた約束組手のような
形式で相手との距離やタイミングを学ぶくらいしかできないだろう。

危険すぎる技が含まれる武術は試合化できない。
その危険な技を除外して競技化すると、似て非なるものスポーツに
なってしまう。
たとえば、現代の蹴り技といえば足を蹴るローキックや胴体を蹴るミドルキック
があるけれど、その技が有効なのは金的攻撃が禁止で、
なおかつファールカップ(金的を保護するもの)をしているという前提がある。
顔面を守る面をつけて闘うならば、軽い攻撃を顔面に受けても大丈夫だけれど、
目突きは軽く受けても致命傷になる。

武術を武術のまま、にすると試合はできない。
だからといって、ルールにのっとった競技試合をしている人が弱いかというと
ぜんぜんそんなことはない。
強いだろうし、中途半端に型しか練習していない人間ならば、
好きなようにボコられるだろう。
でも、型を練りに練って、体そのものが技になった達人になったならば
動きのレベルが違いすぎるので、勝負にならないだろう。

そういう危険な武術を学ぶということは、
それ自体が危険なことでもある。

昔の沖縄では、武術を学べるのは性格の良い人に限られた。
弟子入りすると、先生の家の仏壇の前に通されて、
武術を私闘に使わないことを先祖の霊の前で誓わないといけなかった。
手は君子の武術で、手に先手なしなのだ。

武術には人生を狂わせる可能性がある。
技の練習をすると、それを実際に人に使うことを考えるようになる。
たとえば人とすれ違うと「この人を倒すにはどうすればいいか」と
無意識にシミュレーションすることになる。
それは常に、人を害する思考を育むことになる。
思考は形はないけれど、人生を変える力を持つ。
人を傷つけることばかり考えている人間は、
禍々しい雰囲気を放ち始め、人生から幸福が逃げていく。
武術には争いを引き寄せるというダークサイドの面がある。
武術はへたをすると、暴力の練習になりかねない。

よく現代空手は「空手で人格形成」なんていうけれど、
これは相当難しい。
正しくは「人格者でなければ空手を学べない」だ。

では、暴力と武術を隔てるものはなんだろうか?

2)に続く


Category: 立禅

- 2017年9月26日

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