アシュタンガヨガ、すべてはニローダのために

この間、アシュタンガビンヤサヨガについてあなたは「間違った認識」を
持っているというコメントをいれてくれた人がいた。
残念ながら、どこがどう間違った認識なのかについては教えてもらえなかった
のだけれど、こういう批判的な意見はいい刺激だ。
自分の考えを見直すいい機会。
アシュタンガヨガ(八支則のヨガ)について色々と考えてみた。

たしかに私はアシュタンガビンヤサヨガには批判的で、
実践者の方は気分を悪くするだろうと思う。
でも、そんな私も以前は熱心に実践していた。
アシュタンガヨガの関連書はほぼすべて読んでいる。
プライマリーシリーズは1000回以上やったし、セカンドシリーズの練習も
していた。
アシュタンガヨガ系のTTCも2つ受けたし、
著名なアシュタンガヨガティーチャーのWSにも

地方在住ながら足繁く通った。
おまけにクラスを持っていたこともある。

けれど、いまでは軽く太陽礼拝するくらいになっている。
なぜこうなったか、というと瞑想に出会いアシュタンガヨガに対する認識が
変わっていったからだ。
そして、アシュタンガビンヤサヨガの危険性と間違った方向への努力が
目につき始めて、それを文章にすることで私と同じく違和感を感じている
人に伝えたいと思った。
ただ、違和感を感じている人で出口が見えない人には、私の結論を
伝えたいと思っている。
批判されて気分が悪くなる人がいても、やっぱり自分が違うと思うことは
自分のブログで主張していきたいと思っている。
でも、アシュタンガビンヤサヨガが好きでやっていて楽しいという人は、
ぜんぜんそれでOKだと思っている。
私もリアルで人に会う時、アシュタンガヨガをする人に
聞かれもしないのにアシュタンガヨガの良くない所などをベラベラ喋ったりしない。
あくまで、自分の意志で読んだり読まなかったりできるネットだから
意見を公開しているだけだ。

さて、本題に入ろう。
ややこしい話だけれど、はっきりしておかないといけないことがある。
アシュタンガヨガとは根本的に
ヨーガスートラに書かれているアシュタンガヨガ(八支則のヨガ)のことだ。
これは古代からあるアシュタンガヨガで、近代になってパタビジョイス師に
よって創設されたアシュタンガビンヤサヨガは、この古代アシュタンガヨガの
にたいする新たな実践の形を生み出す試みなのだ。

まず、私が認識している古代アシュタンガヨガを書いてみよう。
そうすることによって、私がアシュタンガビンヤサヨガに対して
感じている違和感が浮き彫りになると思う。
かなり長文になるのだけれど、ヨガや瞑想に興味のある人には
とても参考になると思うので興味があったら我慢して読んでみて欲しい。

ヨガの技術の目的は「心のはたらきをニローダ(停止)させること」
(ヨーガスートラの1章2句)だ。

ヨガの技術体系はすべてこのためにある。
これはアシュタンガビンヤサヨガの練習者も異論はないだろう。

「心を止める?」
あまりにも遠い目標だ。
だけれども、これは身近なところからスタートできる。
それが古代アシュタンガヨガの技術体系だ。

心をニローダ(停止)するために、古代アシュタンガヨガでは体
からアプローチしていく。
体の操作がニローダに結びつく。
体と心は1つに結合しているからだ。
大笑いしている人は、心も笑っている。
心が笑えは、体も大笑いする。
顔の表情1つ変えない人が、
「私はいま大爆笑しています。とても愉快ですね」と
いっても信じられない。
本当の爆笑は、笑おうと意識せずに心と体が時差なく
笑っている。

それをふまえて、考えてみよう。
心の働きがニローダ(停止)している時、
体はどんな状態になるのだろうか。

さまざまな証言を読むと、
深い瞑想状態では
身体はほぼ停止状態になり、外から見ると死んでいるのか
生きているのか判別できないほど、静止する。
1つ1つソースをあげないけれどインドの聖者、東洋の仙人、
古今東西のさまざまな記録はこれを支持している。
体は完全に静止し、心臓の心拍も限りなく低下し、
無呼吸状態が続く。

それもそのはずで、体の動きには心の動きが伴うからだ。
心が動いていないなら、体も動かない。
心がニローダ(停止)していると言い張る人の体が
普段通りに活動していたら、その体を活動させているのは
一体何?という話になる。
(究極的には日常生活をしていても心はニローダになるらしいけれど、
そこまで行ったらもはやヨガの行法など必要としないから、
そういう達人の話は除外して語る)

ここから、

心がニローダの時、体もニローダ(停止)する。

という推論ができる。
それが古代アシュタンガヨガは、心身をニローダに導き
数々のサマディを体験させるためのツールなのだ。

日本語で八支則のヨガと訳されるアシュタンガヨガ。
これを簡単に説明していこう。

8つの支則の1はヤマという「してはいけないルール」で心身を動揺させる行為を
断って、2はニヤマという「積極的にすること」で心身を安定させる行為を
する。これが第一支則と第二支則だ。

そして、第三支則が「アサーナ」
ここで体を静止させることを学ぶ。
ニローダの条件を体から積み上げる。
大笑いするフリをしてアッハッハッハと笑っていると、
本当に感情的に面白くなっている。
笑うヨガの原理だ。
怒っている人の体の状態を真似ると、怒りの感情がこみあげてくる。
体と心はリンクしているから、
各種の座法で静かに座り、体の動揺を
完全に静止させることで、心の波も静まっていく。

アーサナの定義はこれだ。
<アーサナは安定していて、かつゆったりしたものでなければならない>
ヨーガスートラ2章46句

ヨーガスートラ経典の注釈には、例としてさまざまな座り方が
解説されている。
ここで言うアサーナとは安定していてリラックスした座法で、
現在おこなわれているポーズではない。
自然と共に生きていた古代の人には、現代のような
体を曲げたり伸ばしたりする体操は不要だったようで、それらには
言及されていない。
体を動かすヨガは、体を静止しやすいように筋肉の緊張や体の歪みを
解き、座ったときにバランスがとりやすいようにするための
現代人への救済策で、アサナの状態に入るための松葉杖だ。
だから、背骨のバランスを取り戻したら、
座法の時間を長くしていって、本来のアーサナの実践にシフトするのが
本来の姿だ。

アサナは運動ではない。
アサナは運動の反対の安静だ。
筋肉の働きを休め、骨格で座る。
体の動きを低下させ、動きを止めるのがアーサナだ。

心身の停止というニローダという目的地を考えると、これ以外の結論は無い。

その状態になったら、第四支則「プラーナヤーマ」にはいる。
これは気を調える法「調気法」と訳される。
でも、体のレベルで語ると呼吸法だ。
目指すのは<自然な無呼吸状態>だ。

ニローダのとき、呼吸は止まる、もしくはほとんど止まったかのように
微かになる。
その状態を呼吸法で作っていくのだ。
そのために段階を踏んで、息を止めるという訓練をする。
私にはプラーナヤーマという科学の知識は少ないけれど、
現実に観察できる現象からこれを紐解いてみよう。

体は呼吸を制限されると、生存に必要のない部分の
血流を制限して、背骨と脳だけに血流を集める。

これはフリーダイビングの世界では
ブラッドシフトと呼ばれる現象だ。
これがおこると、体感的には血流が背骨に集まって、
背骨が熱くなる。
この証言を聞いて、私はハタヨガを思い浮かべた。
ハタヨガでは、イダーとピンガラーという背骨の左右に流れていたプラーナが
スシュムナー(背骨の中央)に入ったという表現をする。
科学知識がなかった古代の人が、呼吸を制限することでおこるブラッドシフトを
言語化するとしたら、こうなるのではないだろうか。
手足の血流は制限されて、安定してリラックスしたアーサナのなかで、
背骨と脳に血流は集中する。

深海、体の重みだけで自然に沈んでいくフリーフォールの中で
ブラッドシフトをおこし、背骨と脳だけの存在になった
フリーダイバーたちは神秘的な体験をするという。

静かな場所で一人、
ヨガの実践者は骨格のバランスで座るアーサナと呼吸を制限して無呼吸状態に至る
プラーナーヤーマで、非日常の意識状態に入っていく。

アーサナで体を極限までの静止状態にしておいて、
筋肉のスイッチをOFFにして、プラーナーヤーマで呼吸を制限し
体を非常モードに切り替える。
これが古代アシュタンガヨガ、ニローダ(停止)という状態を人工的に作り出す
技術だ。
私はこれが古代アシュタンガヨガのアーサナとプラーナーヤーマだと
確信している。

こうして心身が極限までに静止状態になると、
「こうして、輝きの覆いが取り除かれる」2章52句
「その時、心を集中に適したものになる」2章53句
とヨーガの瞑想に入る準備ができたことになる。

ちなみに仏教のアーナパーナサティ(呼吸の瞑想)
でも、アプローチは違うけれど同じような順路になる。
「呼吸を感じる」
「体の感覚を感じる」
「体の感覚を鎮める」
ヴィパッサナー瞑想の10日間のリトリートで
一日10時間の瞑想を積み重ねていく経験をしたとき、
アーサナとプラーナーヤーマを実践したかのような状態になった。
体は不動になり呼吸はあるかないかの微かな状態になり、
ガッチリと固まるような状態になっていく。
他の参加者の方も同じ経験をしたらしくその方は
「体が盤石になる」という表現をしていた。
私の場合、アーサナとプラーナーヤーマをすると、
その状態に近づいていく。
古代アシュタンガヨガのほうが、よりテクニカルだけれど
目指す状態は同じだ。

ここまで見てきたとおり、私が思う古代アシュタンガヨガは
ニローダの体の状態を作るものだ。

座って、体を安静にするという条件がニローダに近づくために有効だから
ヨーガ、仏教、道教とスピリチュアルな身体技法は
「座る」という状態を重視している。

それを考えると、ほぼすべての実践をビンヤサヨガに費やす
アシュタンガビンヤサヨガは
エクササイズとしては有効だろうけれど、
ヨガとしては効率が悪い。

ビンヤサヨガをやり終わったあとに、心身ともにスッキリする人もいるだろう。
でも、それはランニングしてストレッチして爽快な気分になるのと
どこが違うのだろうか、
とも思う。
だから逆説的にアシュタンガヨガが好きで続けている人に対しては、
とくに止めたほうがいいとは言う気はない。
心身がスッキリしてエクササイズの効果があるなら、やる意味は充分あるからだ。
でも、それが唯一無二ではないことも覚えておいて欲しい。
似たような代替えエクササイズはたくさんある。

しかし、古代アシュタンガヨガのアーサナと
プラーナーヤーマの代替え品は存在しない。

ニローダという特殊な目標に向って、進むための道具。
人を活動ではなく、安静に導くための技術がヨガだ。

だから、私は心の平安を求める人にアシュタンガビンヤサヨガをおすすめしない。
だったら、簡単な太陽礼拝のような運動とだれにでも出来る簡単なヨガのポーズで
体を整えて、アーサナ(座る)して無理のない程度に
プラーナーヤーマを深めていって、

瞑想に入るほうがよほど有効な時間の使い方だと思う。

それが私のアシュタンガヨガに対する認識だ。
もしもここは違う、というご意見があれば具体的にどう違うのか
ご指摘してもらえたらと本心で思う。
まだまだ知らないことや体験していないことが
山ほどあるし、随時自分のなかのアシュタンガヨガを
アップデートしていくことになると思っている。

 

資料
アシュタンガビンヤサヨガの起源にたいして調査した本。
私はかなり信ぴょう性が高いのではないかと思っている。

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Category: アシュタンガヨガ

- 2016年9月5日

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