武術と暴力と瞑想と(2)

前回の続き

武道や武術、人と闘うスキルはそれを学ぶこと自体、
危険がある。
いつも人を傷つけることばかり考えているので雰囲気が悪くなり、
その敵意が争いを呼び寄せる。
人生は静かな闘争の中に巻き込まれて、
日々の幸福感は消えていく。

間違った方法で、武術をするとあっという間に
ダークサイドに落ちてしまって、
暴力の世界に生きることになる。
いえ、毎日喧嘩なんてしていませんよ、という人も
相手を一発で倒す突きをどうやって
決めるか?とか金的に蹴りを打ちこんだ後の目潰しのコンビネーション
なんて練習したり、シミュレーションしている時点で、
心はもはや人間界ではなくて、争いの修羅界に住んでいるのと同じだ。

そんなダークサイドに落ちずに、武術を修行する方法。
暴力と武術を隔てるもの。

暴力とは、怒りを伴い、衝動的な体の動きで、
「ついカッとなって」の怒りに体が乗っ取られたモノだ。
硬直した力任せの動きだ。

武術はその反対に、力任せではないリラックスした合理的な動きで、
心には一切の怒りなどのネガティブなものが伴わない。
システマというロシアの型のない武術は、
型がない代わりに、リラックス、呼吸、姿勢、動き続けること、という
要訣で動くことを要求する。
空手や中国武術の型も、同じ要訣が含まれていて、
長年伝わってきて達人を生み出してきた型は、
リラックス、呼吸、姿勢、融通無碍の動きの体現だ。

初心者同志の争いでは、闘争心むき出しで怒りに体を麻痺させた
暴力が勝利を収めることがある。
怒りは体の痛みを麻痺させ、筋力をアップさせる。

だけれど、武術の達人の前では通じない。
同じ闘争に至って、武術家の心に怒りはなく、冷静沈着でその動きも合理的で力任せではない。
それがスピードも威力も、怒りに任せた人間を超える。
逆に彼の学ぶ武術の体系は、怒りという情動がマイナスに働く。

達人を目指す侍は禅を学び、殺し合いのその場で静かな水面に月がハッキリと映るような
心境をめざした。
腕力ではない、合理的でリラックスした体づかいを十全に活かすには、
生死の場にあって、それを超越した一種の悟りのような心境が必要なのだ。

武術の練功にあたっては、
力任せではない、体の合理的な構造を活かした動きを追求する必要がある。
自分の全身の感覚を研ぎすませて、無理がないように練っていくのだ。
それは動く瞑想になる。

ここで長年の謎が解けた。

「天下の功夫、少林寺より出ず」

という言葉がある。

すべての功夫(中国武術)の源は、少林寺から出た、という言葉
なんだけど、昔はこれが理解できなかった。

曹洞宗の禅寺である少林寺が、
なぜ暴力行為の総本山であるのか?
武術と暴力の違いが理解できない頃は
これがわからなかった。

少林寺が武術家を養成する梁山泊のような山であるのなら
理解できるけれど、なぜ禅寺である必要があるのか?

でも今はこう思う。

暴力の本質は、他者を害することで、その体の使い方が
怒りにまかせた力任せであるとすると、

武術の本質は、生死を超越した平常心と合理的なリラックスした
体の使い方であるとするならば、
禅なくして武術はない。

本当の武術は、歳をとっても無理なく続けられる。
それは体の合理的な使い方を学べるからだ。
武術の体の運用をする時には、邪な心は邪魔にしかならない。

怒り、敵対心、相手は害する残酷な心は、
体を硬直させる。

相手を傷つけるような突き蹴りの練習をしながら、
そういうダークサイドに堕ちないためには、
やはり禅(瞑想)が必要だ。

正しい姿勢で、リラックスした動きで、害意なく武術を学べるならば
錬功は瞑想になり、ダークサイドに堕ちることはないだろう。
禅と武術は両輪で、卓越した功夫の総本山が禅寺であるのは
必然なのだ。

つきつめると、武術は禅の一つの表現といえる。

そうなのだ、本当の武術ははっきりいって難しすぎる。
武術をするほとんどの人が「おれはあいつよりも強い弱い」という
争いに世界に落ちてしまうのは、この難しさがあるからだ。

なので、子供には武術はさせない。
争いの世界に生きるというダークサイドに堕ちることになるからだ。
それならば、同じ勝ち負けでも相手を傷つけないスポーツをしていた
方がいい。
スポーツマンと格闘技や武術をやる人では、雰囲気が違う。
やっぱりスポーツマンのほうが明るい。

とはいえ、武術に内包された優れた身体文化は素晴らしいものだ。
私は、八極小架という基本的な型をゆっくりと
穏やかに練って、動く瞑想とするという練習を筋トレのオフの日に
とりいれた。
しかし、数日やってみて、よくよく考えると日頃している立禅という気功として認識
されているものは、究極にシンプルな型だった。
八極拳と違うのは、八極拳の基本は馬歩といって腰を落として馬に乗るような
立ち方が基本になっている所だ。
その日から私の立禅の下半身は馬歩になり、その動かない(ように見える)
腰を落として立ったままの錬功が、私の武術(瞑想と合理的な体の運用)となった。

 


Category: 立禅

- 2017年9月28日

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