イメージで自分をひっぱっていく

先日、仕事で私よりもあきらかにおじさんの人から、
「ねえ、おじさん」と話しかけられた。
それが結構ショックで、ショックを受けている理由を色々考えた。

私は42歳だけど、まだ自分がおじさんであることを
受け入れていない。
だから、自己イメージと違う「おじさん」と言われると
ショックをうける。
そういうことなんだろう。

自分で「いつまでも若いことに価値はない」なんてエントリと書いておいて、
無意識のところで、自分はまだまだおじさんではない、と抵抗していた。
でも、もうおじさんなのだ。
歳をとっても構わないけれど、おじさんとは呼ばれたくないというワガママだ。
まぎらわしいのは、私のことを「お兄さん」と呼ぶ人もいることだ。
でも、それはお世辞なのだ。
42歳のお兄さんなんていない。
そろそろ楽になればいいんじゃないか。
おじさんライフを楽しめばいいんじゃないか、と自分に語りかけて、
自己イメージを「おじさん」と規程した。

そうすると心が楽になって、皺もシミも受け入れられるのだけど、
今度は、なんというか途端にだらしなくなってきた。

休日を自堕落にすごしてもなんの痛痒も感じない。
セーブもなくお菓子をむさぼり食う。
自制心というアプリケーションが落ちてしまったような有様。

これは自己イメージが「おじさん」に切り替わったことで、
行動もそれ相応のものになってしまった結果だと思う。
そう考えると、自分が自分をどう規程しているか?というのは
恐ろしい影響力がある。
自分で「自分はおじさんだ」と思うことで、その「おじさん」というイメージから
連想される「だらしない」「不健康」などにふさわしい行動がおこってくる。

侍は「侍という自己イメージ」から、西洋人が驚愕した
粛々と切腹に挑んで自死するような
異常な精神力を保っていたのだと思う。

あらためて自分を規程し直さなければならない。
堕落の道である「おじさん」はやめだ。
あらたな自己イメージとして「ヨギ」を自分に提案する。
私は「ヨギ」、つまりヨガをする男性だ。

私の考えるヨギは、
五戒を守り、(暴力を振るわない、嘘をつかない、盗まない、不倫しない、お酒をのまない)
食を自制し、(動物性の食品をとらないヴィーガンで、1日2食)
体を鍛錬し、(ケトルベル、ランニング、キャリステニクス(自重トレーニング)など)
神経を鍛え、(呼吸法、立禅)

日々、瞑想を深める(呼吸の瞑想)存在だ。

若くても歳をとっても、ヨギでいられる。
私は「お兄ちゃん」でも「おじさん」でもない。
「ヨギ」だ。
ショックを受けるべきは、
「ヨギじゃない」と言われることだ。


Category: エッセンシャルヨガ

- 2018年5月9日

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