最後に残るかもしれないものにコインを張る

忘れがちだけど、みんな死ぬ。
これは本当にリアルに理解できないことだ。

ブッダもいう。
「我らはここにあって死ぬはずのものであると覚悟しよう。
しかし、この理を他の人びとは知ってはいない。」
そして、この事を知ることによって、恨みや憎しみなどの争いは
鎮まるという言葉が続く。
つまり、死ぬことをほとんどの人は理解していない。
死なない者であるかのようにお互い争っている。

<死を意識する>というとなんだか「暗い」「ネガティブなこと」と
思えるだろうし、書いていて一気に説教臭くなること請け合いだけど、
死というゴールを意識することで<生きる>ことが明白になる。

死を前提に生きると生はよりリアルになるのだ。

死んだあとも残るものはなんだろう。
大企業の社長をしていた老人が死ぬとする。
役職は解かれ、元社長になる。
お金は国に税金として取られ、遺族に分配されて
死者は無一文になる。
持っていた物も同様だ。
つまり、現実社会に関わる物は
なんにも持たずに死んでいく。無価値になる。
死の前には貧者も富者も等価値だ。

しかし、臨死体験の文献を読んだり、ヨーガや仏教を
学ぶと「心」だけは死後にも存在する可能性がある。

お金や地位が消滅することは断言できる。
でも、死後に継続する「心」があることを100%否定することは
できない。

可能性が残っている以上、私はそれにかける。
もしもこれがギャンブルだとしたら、
あなたは「お金や地位」という100%全額スッてしまうマスに
お金(生き方)を張るだろうか?
それとも、僅かな可能性でも「生き延びる」マスにお金(生き方)を
張るだろうか?
私は「心」に人生を賭ける。

だから、私は「心」を大切に生きようと考える。
お金や地位のために嘘をついたり、人を傷つけたりして生きるのは
割に合わないと考える。
もしも、地位やお金で権力者になり(可能性は薄いけど)傲慢に
なりがちなポジションについたとしても、そんなものに価値は見出さない。
そこでおだてられて浮かれて、傲慢になってしまったら、心が無価値に
なってしまう。
そうなるとゴール(死)を迎えたとき、すべてのお金と地位が無価値になった
あとに残る心が「傲慢で鼻持ちならない心」だとしたら、
現世では富者でも、心で測られる死後は貧者に転落だ。

現実社会で触れるものはすべて道具だ。
それを使役する「心」が大切。

最後にまたブッダの言葉。
「物事は心にもとづき、心を主とし、心によってつくりだされる。
もしも、清らかな心で話したり行ったりするならば、福楽はその人に
付き従う。影がその体から離れないように。」ダンマパダ

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どのマスに張っても、ルーレットが止まれば確実にゼロになる。
だけど、心のマスはゼロにならない、かもしれない。
生きている内はそれを確証することはできないから、賭けるしかない。

 

今日、引用したブッダの言葉はダンマパダから。

ブッダの真理のことば・感興のことば (岩波文庫)

 


Category: ヨガ的かんがえ, 生活を変える方法

- 2015年9月26日

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