謙虚だから美しい、外見を超えるもの

たとえば、日本の最高学府とされている東京大学を卒業した人がいると
する。その人が常に東京大学の卒業証書を持ち歩き、会う人会う人に見せびらかし、
「東大」と刺繍された服を着ていたら、きっと私は
「なんて見苦しい人なんだ、たぶんそれ以外に誇れるものがないんだろう
、東大卒のアホだな」と思ってしまうだろう。

お金をたくさん持っている人が、高級車を乗り回し、
何百万もする腕時計をして、キラキラな服装で歩き、
口からでる言葉は「儲け」や「私の資産額は」などだったら、
やっぱり私は「お金持ちである偉い俺様」に付き合うのは
疲れるから距離を置くだろう。

素晴らしい肉体を持つ人が、紐のような極細の乳首と胸筋が
丸見えのタンクトップを着ていたら、暑苦しいし醜い。

つまり、学歴もお金も素晴らしい肉体も、
露骨にアピールすると、醜い。

でも、まったく普通に見える謙虚な人の学歴が実は
東大卒だったら、私は仰天して「凄い凄い」言うだろう。
パターンは同じ。
ぜんぜんお金持ちに見えない飾り気のないお金持ち。
普通の服を着ていて、ちょっと体がごっついかなと思って
いた人が鋼の肉体の持ち主だったら、一気にリスペクトだ。

これでもか、と学歴やお金や筋力を誇示する人たちは、
「他人に勝つ、負ける」という低いレベルにいるけれど、
凄いにもかかわらず謙虚でいられる人は、
自分との勝負という1段上のレベルにいる人だ。

話は変わるけれど、今年42歳になる私は
外見が若いか老けているかにとても敏感になった。
「よし、まだ禿げの兆候は出ていないOK!」とか、
「ううん、以前、外仕事をしていたからもう消えない大きなシミがあるガックリ」
とか、とにかく若く見えることが嬉しくて老けるのが嫌な自分がいることに気づく。
これは、とても低いレベルの一喜一憂だ。

そうでなくて、外見ではなくて内面、中身のある人間であるか
が重要なのだ。
人間として大切なのは、学歴でもお金でも肉体でもなく、
もっと根幹の中身だ。
抽象的な言葉だけど「魂」が綺麗な人であればいい。
他一切はおまけでしかない。

では、どうしたら中身がある人になれるだろうか?
何千年も前に、そのことについて深く考えた人がいる。

ローマの皇帝でありながらストイックに哲学者であろうとした
マルクス・アウレーリウスだ。
重責の中、皇帝と哲学のはざまで引き裂かれるように生きながら、
善く生きようとした彼は、自分しか見返さないメモ帳にこう書きこんでいた。

<人生の時は一瞬にすぎず、人の実質は流れ行き、その感覚は鈍く、
その肉体全体の組合せは腐敗しやすく、その魂は渦を巻いており、
その運命ははかりがたく、その名声は不確実である。
一言にしていえば、肉体に関するすべては流れであり、
霊魂に関するすべては夢であり、煙である。
人生は戦いであり、旅のやどりであり、死後の名声は忘却にすぎない。
しからば我々を導きうるものはなんであろうか。
一つ、ただ一つ、哲学である。  後略>

皇帝であるマルクスは、金でも権力でもなくさらなる領土でもなく、奴隷でもなく、
ただ一つ、哲学を求めた。

マルクスがいっている哲学とは、
本や大学で勉強するようなものではなくテキストの暗器ではなく、
自分と向き合いながら、魂を磨く価値観、実践すべき内容で、
学ぶべきものというよりか、それを生きるものという
意味づけに近い。

中身のある人間になるには、
自分の魂を磨く方法が必要になる。
それを哲学という。
その哲学の実践を修行という。

私にとってそれは仏教哲学だ。
でも、私が知っている仏教哲学はわずかだ。
それでいい。
どれだけ何かを知っていることではなく、
実際、何が出来るかが重要だ。


Category: 仏教

- 2018年1月13日

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