置かれた場所で咲きなさい?

「置かれた場所で咲きなさい」というベストセラーがある。
神を信じる修道女さんの書いた本で、すこしだけ立ち読みしたことが
ある程度なので、この本について深く語ることはできないんだ、
けれど「置かれた場所で咲きなさい」なんて
本当だろうか、と思ってしまう。

著者の方は「神様があなたを配置した場所で綺麗に咲きなさい」という
意味でこの言葉を使っている。
神を信じている人ならば、これで納得するんだろう。
だが、
私は生まれついて不可避の運命とか神の采配とか信じることができない。

運命みたいなものはある。
それはカードゲームでいえば、私の手札をシャッフルして
札を配るものだ。

生まれながらに配られた手札がある。
環境や体、気質など。
でも、その手札は過去生でプレイして作られたカードだ。

ゲームをどういう風にプレイするかで
配られるカードは変わってくる。
手札は膨大な数になり、使うとそれがゲームに影響を及ぼし
さらなる手札がディーラーから配られる。

そして、私達にはさまざまな手札を選択して、
人生を創りだしていくことができる。
配られる手札は選ぶことができない。
過去の行為や世界のルールに縛られている。
だれども、その手札をどう使うかを選ぶ自由は
残されている。
だから「置かれた場所」に置いたのは自分なのだ。
深い意味はない。

しかし、
たまたまのゲームの局面を
「神に置かれた場所」だと深い意味を与えて、
「一所懸命」でがんばることは怖いことだと思う。

「置かれた場所で咲く」という選択もある。
でも「違う環境に行ってみる」という選択もある。
この選択はイーブンだ。
どちらが優れているとか、間違っているとかはない。
しかし、神が介入してくるとややこしくなる。

たとえば、山でテントを張っていて、
そこが涸れ沢で大雨が降ったら水没すると気づいたら
あたりまえだけど逃げるべきだ。

「ここにテントを張ったということは、神の采配。
きっと大雨など降らない」

と置かれた場所に留まるべきではない。

一々、神の采配、、!などと決めていたら、
あなたをコントロールして利益を得る人にいいように
人生を蹂躙されてしまうだろう。

たとえばブラック企業の社長は「置かれた場所で咲きなさい」という
言葉が大好きで、社員にも読ませるだろう。
だけれども、青白い顔でサービス残業をして疲れきっているあなたを
みた母親は「さっさと辞めなさい」というだろう。

もしも、神がいて、いろいろな形でメッセージを人々に
届けているとしたら、こういう文章を目にしたということが
すでに神のメッセージだ。
私が神だ、というのではなくて、こうして世界にこういう言葉が
存在している、ということは、神が存在を許しているのだから、
神の意志を告げていると思ってもいい。

いかに人生を創っていくか、この限られた手札をどう使うか、
それを放棄してはいけないと思う。

もしも置かれた場所で咲くことを良しとするのなら、
私達はいまでもアフリカにいるだろう。


Category: 生活を変える方法

- 2016年5月21日

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