大いなる存在について(イシュワラプラニダーナ)

 

ヨーガは、さまざまなアプローチが複合されている。
経典ヨーガスートラを読むと、瞑想のことも書いてあるが、
<大いなる存在>のことも書いてある。
ヨーガは自力でやることと、助けてもらうことの併用なのだ。

人には依存心がある。
だから、怪しいグルに騙される人が後を絶たない。
でも、その気持ちは私もわかる。
何かにすがりたい。
私はそんな強い人間じゃないから、気弱になったときの
気持ちは専門家だ。

危機の時。
ときとして自分の力でどうしょうもない状態になる。
いかんともしがたいことがある。
そんな時に「自分でなんとかしろ」と
言われても無力感がつのるだけで起き上がれない。
背骨を折られるような気持ちで、瞑想どころではなく、
気づきの意味も見失ってしまう。
不幸に完全に同一化して、そこから抜けられない。

そんなとき大いなる存在に祈る。
(イシュワラプラニダーナ)

「自分ではもう無理です、お助けください」と
いう姿勢だ。
じつはこれも瞑想と同じロジックなのだ。
<瞑想は普段の自分を手放して、瞑想がおこる環境を
作って、それに任せる>

道元禅師はこう言った。
「ただわが身をも心をもはなちわすれて、
仏のいへになげいれて、仏のかたよりおこなはれて、
これにしたがひもてゆくとき、
ちからをもいれず、こころをもつひやさずして、
生死をはなれ、仏となる」

これを読むと、禅というのは
「私がやるんだ!」と気合を入れるものではなく、
すべてを手放して、自分を仏の家に投げ入れて、
仏におまかせすることであるのがわかる。

大いなる存在に助けを求めてる姿勢と、
瞑想の受け身の姿勢は変わらない。
<助けを求めて祈ること><瞑想>
違うように見えるけど、
コインの裏表だ。

ただ、悩み苦しみの同一化が頑固で、
瞑想をしようとすると、その悩み苦しみが
しゃしゃり出て、また悩み苦しみのループに
入るような時は、もう降伏して大いなる存在に助けてもらうに限る。
自分の力の限界を感じる時こそ、素直に祈る姿勢が生まれる。

オームというマントラがある。

これは自在神という人を導き助ける<大いなる存在>
表した言葉だ。

このオームなんだけど、面白い証言がある。

「プルーフ・オブ・ヘブン」という本がある。
ヨーガとかまったくしていない西洋人。
脳神経外科医のエベンさんが、ほとんと脳死状態で
体験した、この世よりもリアルな「あの世の体験」を書いた本だ。

レントゲンでみても、脳が機能しない状態で
エベンさんは色鮮やかな「あの世」を訪れ、
「神」と遭遇する。

エベンさんが遭遇した神は、
我々一人一人に共感し、つねに目を配っている。
愛と智慧の存在で、人間よりも広大で豊かな情動を
もち、私達はつねに愛されている。
(これが私には驚きだった。もしそういう大いなる存在が
いたとしたら、私など省みる価値もない虫みたいなもんだろう、と
思っていたから)

エベンさんは養子で、ずっと親に捨てられた感覚を
抱えて生きてきたのだけれど、その存在と遭遇してからは
この世の誰一人として独りだったり捨てられた人は
存在しないと確信する。
つねに神とともにあるからだ。

そして、その存在につながる響きとして記憶していた音
オーム。

「オームなんか!」私はそれを読んだ時、死ぬほど驚いた
オームなんて言葉はインドの文化的な形式的言葉だと
思っていて「南無阿弥陀仏」でも「天照大御神」でも
唱える言葉は何でもいいと思っていたから。

オーム。
もしかしたら、ヨーガが成立した太古の時代、
エベンさんと同じように<大いなる存在との遭遇>を
深い瞑想によって体験したヨギが持ち帰った言葉がオームかも
しれない。

あと思い出したんだけど、神道にもある。
お家の地鎮祭のとき、白山比咩神社の神主さんがきて
お祓いとしてもらったんだけど、
その時「神様をお呼びします」と言ったあとに、
神主さんが唱えた言葉が、
「おおおおおおおおおー!」だった。
オームの変形バージョンにしか聞こえなかった。
そのとき、内心「オームか、ここでもオームか、神道マジか」
と思った記憶がある。

私はオームと唱えるとき、
我々に共感し気をくばり、人間よりも豊かで広大な情動を
もち、慈悲と智慧の存在である<大いなる存在>に思いをはせる。

マントラは音程と発音をちゃんとしないとダメだ、という専門家も
いるけれど、それは嘘だと思う。
たとえば、子供が困って私を呼ぶときに「とうち!」と「父さん!」と
言えなかったとしても、私は助ける。
「とうち、は父さんではないので知らない。ちゃんと言えたら助けよう」
ということは、たかだか人間である私でさえしない。
ましてや慈悲と叡智の<大いなる存在>である。

日本語なまりのオームでも、音程が狂っていても、
<大いなる存在>は、必ず助けてくれる。
というか、マントラを必要としているのは人間の方だ。
<大いなる存在>は<大いなる存在>ゆえに、
「あっ、ごめん、マントラ唱えてもらわないと助けられんわ」
みたいなつまらないことに限定された存在ではない。
<大いなる存在>にとってマントラは必要ない。
ただ、人間が<大いなる存在>に意識を向ける道具として、
マントラがある。
唱えている本人の意識がちゃんと向いていれば絶対に大丈夫。

オームという言葉にピントこない人は、
天照大御神でもなんでも大日如来でも好きな神さまの名前で

助けを求めればいいと思う。
本当に手も足もでない危機のときがきたら、
これを覚えておこう。
助けを求めるのだ。

ヨガの練習の前に、祈ることも有効だ。
<大いなる存在>はヨガの師でもあり、
あらゆる師を遡ると<大いなる存在>にいきつく。

自称ヨガマスターのスキャンダルを見聞するに、
現代のように信頼すべきグルと会えるという
僥倖が期待できない時代のヨギーは、
<大いなる存在>の内なる導きに頼るほうがいい。
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Category: ヨガ的かんがえ, 読書

- 2015年6月24日

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