アーナパーナサティの道

 

今年、研究している経典は仏教の「アーナパーナサティ」
ブッダが語ったと言われる「呼吸の瞑想経典」だ。
呼吸に意識をむけることで、仏教瞑想の奥義まで行き着くというもの。

私は普段、シンプルに呼吸にだけ意識をむける瞑想をしている。
私のような一般人は、強いコントロールを含んだ瞑想体系に踏みこむのは
危険と隣合わせだ。

「よーし、◯◯するぞー」と気合を入れると
「瞑想しているつもりの考えの檻」にはまるだろう。
自分で作り上げた概念に入りこみ、その考えの檻に
囚われ危険がある。
だから、避けていた。
「こういうのは所詮、出家(プロ)用でしょ?」と思っていた。
しかし、最近ある転換があった。

その前に簡単に「アーナパーナサティの道筋」を書く。

最初のステップ
「1,長い呼吸は長いと感じる」
長い息は長い息として、
ただありのままの呼吸を感じる。

「2,短い呼吸は短いと感じる」
短い呼吸は短いと感じる。
ただありのままの呼吸を感じる。

「3,体を感じながら呼吸を感じる」
体の部位を個別に感じたり、全体を感じたりしながら
呼吸を感じる。

「4,体を鎮めながら呼吸を感じる」
体の動きを鎮めながら呼吸を感じていく。

順番に意識を向ける対象が変わっていく。
全部で16ステップ。
「体のステップ4ステップ」
「感覚の4ステップ」
「心の4ステップ」
「法則の4ステップ」
これをどうやって実践するのか?
やり方によっては落とし穴にはまる。

体のステップを
「はい、呼吸を感じて、はい、体の感じて、はい、体の動きを鎮めて、
よーし、それから感覚のステップね、喜び(ピーティ)を感じて」
と次々と自分勝手に次に次に行っても意味がない。
ただ「やっているつもり」になるだけだ。

もし、これで意味ある瞑想ができるんだったら、
「はい次、はい次」と最後の
「法則の4ステップ」にほいほい飛んで、
「はい、極めました!」という話になる。
なんだろうこれは。

しかし、ある時、瞑想の実践を考えを繰り返している中で、
「あっ!」と思い当たることがあったのだ。

ゴエンカ式のヴィパッサナー瞑想リトリートを受けたときの体験だ。
瞑想に入って8日目あたりから、瞑想に入ると体がピタッと静止して、
固まるように不動化するという現象がおこった。
まるで高速に回ったコマが、ピタッと静止して見えるような感覚。
エネルギーに溢れているけど、肉体は不動の状態。

これは家に帰って、だんだんと日常に戻ると消えてしまって、
いまではよほどコンディションがよくないと現れない。
ひそかに「不動化」と名づけた現象。
これは私と同じリトリートを受けていた年配の方も、
「なんか座ると、体が盤石になるというか、ビタッとくるんだよなぁ」と
この現象を表現していて「あ、おれだけじゃないんだ」と思った記憶がある。

いまさら気づいたんだけど、
これは自然と「3,体を鎮めながら呼吸を感じる」がおこった結果だった。
あの状態はたしかに「体の動きが静まった状態」だった。
普段無意識におこっている微動も止まり、筋肉が硬直しているわけでも
ないのに、がっちりと不動になる。

もっとも注目すべきは、この現象がおこった当時、
アーナパーナサティの道筋は
ぜんぜん知らなかった、ということだ。
なんにも考えずに瞑想をしていら、自然と次が現れたのだ。
ちなみにゴエンカ式では、最初にシンプルに呼吸を感じる瞑想をして、
次に体の感覚を感じる瞑想に入る。
アーナパーナサティのステップでいえば、1,2,3を徹底的にやる。
でも、「体の動きを鎮めながら呼吸を感じましょう」みたいな誘導は一切ない。
私は1、2,3,と自然に深めていく中で、
自然的に4に行き着いたのだ。
アーナパーナサティを知っていたら、年配の方と二人で
「なんか不思議な感覚あるんですよねー、なんすかねこれ」と
ハテナな顔で話していなかった。

これは大きな発見だ。
「アーナパーナサティは道」なのだ。
呼吸に意識を向けるというシンプルな瞑想が深まっていくにつれて、
自然と風景が変わっていく道。

まったく作為なしに瞑想するのは人間にとって難しい。
道から外れて迷うことになる。
ある程度の目標地点がある状態が望ましい。
だけど、地図ばかりみて実際に歩かないことには瞑想にならない。
地図を眺めていても目的地につかない。
ハワイのガイドブックに精通しても、ハワイに行ったことにはならない。
歩く(瞑想)する必要がある。
だけど無目的に歩くのではなくて、ある程度の道筋を頭にいれて
歩くのだ。
瞑想中に地図を思い浮かべるのは、歩みを止める行為だ。
だけど、次の目標地点を念頭においておくのは必要だ。
この微妙な感じが私のいまのところの結論だ。

ちなみにアーナパーナサティでは、この次に
「4,喜びを感じながら呼吸を感じる」
と続く。ここでいう喜びとはピーティと呼ばれるもので、
私は経験がないので書けない。
でも「体の動きを鎮めた先に自然とおこるんだろう」
ということはガッチリと信用している。
自分で1から4まで確かめて、実感しているから、
5もあると思うのは、実体験からの信頼だ。

しかし「瞑想を先に進める!」と意識しすぎてもいけない。
そうなると、ただ「瞑想を先に進める!」という概念に囚われて座っているだけに
なり、結果的に瞑想は進まない。
シンプルにすることは変わりない。

瞑想の進歩の基準は頭にいれておくけれど、
力づくでそれを目指さない。
微妙な配慮が瞑想には必要だ。

ちなみにまったく瞑想を始めたばかりの人は、
ほんとうにただシンプルに呼吸に意識を向けるだけで
充分だと思う。
あれこれ目をむけて、あやふやな瞑想になるよりか
よっぽどマシだ。

 

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Category: 瞑想

- 2015年6月15日

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