もっていけない瞑想の国

瞑想に出会って変わったことと言えば、
ヨガのWSなどに参加することが少なくなったことだ。
私も以前は、ケンハラクマ先生をはじめとする
いろいろな先生のWSに参加していた。
ヨガをしている人の中には、いろいろな著名なヨガティーチャーの
WSに参加したり、インドに行ったりと積極的に
外に習いに行く人がいる。
でも、今は「もう習う必要を感じなくなった」
ちょっと違うニュアンスで書くと、
「ヨガは習えないものだ」と気づいたのだ。
自分で感じとるしかないものを教えてもらおうとするから、
数々の先生やインドを彷徨うことになるのだ。
たしかに知識は必要だろう、だけど必要とされる知識なんて
たかが知れている。
でも、
瞑想の中には何も持っていけない。

キリストは
「金持ちが神の国に入るのは、
ラクダが針の穴を通るより難しい」といった。

この「神の国」を瞑想に置き換えると、
瞑想の国にはなにももっていけない。

金持ちとかではなくて、
社会的な地位や、聖なる身分も、、、
「私は大僧正だ」みたいなアイデンティティを
かかえて瞑想することはできない。
「◯◯持ちの私」のままでは入れない。

瞑想に対する知識も、過剰なら邪魔になる。
瞑想に対する考えは瞑想ではない。
だから瞑想の中でも、だれしもが平等だ。
経験もなにもかもが白紙だ。

「習える」ものはすべて概念だから、
瞑想の中にはもっていけないゴミなのだ。
どんな聖なる知識でも、瞑想の最中では
ただの雑念になる。
それはエゴが働くときに機能するもので、
瞑想でまるまる作用を停止しようとするときには、
やっぱり邪魔になるのだ。

心の中にある瞑想の国は、
なにかをもっていたら入れないの国なのだ。
しかし、その中にはリアルがある。
そのリアルに触れることができたら、
結局、いろいろな「教え」は案内図の部分なのだ。

行き先が全部同じだと知ったら、
「あっ、そういう道選ぶですか」
「そういう方角から行きますか」という
感じしかしない。

案内図はとても大切だけど、
それを眺めていても、一向に瞑想の国につかない。
歩きながら眺めていると転ぶ。
重い荷物を背負っていると、亀の歩みだ。
地位や名誉や博識をもったままだと、関所で
止められる。

いろいろな精神的な伝統で、
所有物は必要最小限、もしくは無所有と
いっているのは、物理的な物や地位を
持たない人のほうが、すいすい入れる
からだ。
持っていない人は、そもそも心の中で
それを手放す必要がない。

キリストが、
<頼りなく、望みなく、心細い人は幸せだ。
神さまの懐にシッカリと抱かれるのはその人たちだ>

といったのは、瞑想の国にも当てはまる。

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Category: 瞑想

- 2015年2月16日

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