筋肉バカみたいなやり方をしないヨガ

 

凡人には盲点がある。
自分で気づけない思いこみで、それが
ポロっと取れるとちょっと世界が変わる。

私には無意識に
「もっと集中力(サマタの力)をつけないと
瞑想は進まない」と思っていた。

今の私ではなく「集中力がもっとある自分」
のために瞑想しているような感がすこしあった。
今を犠牲にして、未来に備えるという
態度だったと思う。
集中力さえあれば全部解決する、と
無意識に思っていた。

しかし、それは違う。
まるで筋肉バカみたいなやり方じゃないか。

荘子には、牛を解体する達人の話がある。
その達人は牛刀を肉の切れ目にそって無理なく使い、
骨にあてたりしないから、牛刀が長持ちする。
もしも筋肉バカみたいなやり方をするなら、
力まかせに無理やり解体して、すぐに牛刀を
ダメにしてしまうだろう。

ようは使い方の問題だ。
「集中力がありさえすれば」というのは、
パワーで押しきれるという筋肉バカ的な考えだ。
いまある資質を上手く使う、という創造力が欠けている。

たしかに集中力は必要だけど、
それさえあれば全部解決する魔法のツールじゃない。
「お金さえあれば人生の問題は全部解決するのに」と
お金を崇拝する人と変わりない。
使い方の問題で、うまく使うのなら思うほどお金も集中力も
いらない

そういう風に考え方が変わってから、瞑想が変わった。
一瞬、一瞬の瞑想が生きているようになった。
未来のために積む義務ではなく、
今ここで瞑想の効果が現れやすくなった。

集中力(サマタ)が重要なのは変わらないけれど、
その日まで待つ必要はない。
それは形をかえた逃避だ。
「◯◯になったら私の人生が始まる」式の
夢を叶えるためという理由で「今」をないがしろにして
逃げるのと変わらない。
それは最善を尽くしていることにはならない。
今できる範囲で、しっかりと生きて最善を尽くす。
できることはこれだ。


Category: 瞑想

- 2016年2月3日

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