内向的な人がパートナーに出会う方法

内向的な人は知り合いが少ない。
人と付き合うというのは大きな決断だ。
本当は一人が一番ラク。
でも、やっぱり人間だから
あんまり一人すぎると寂しいときもある。
とはいえ、つねに人の中にいるのも耐えられない。
私はそういう内向的人間。
人間のブレンドとしては「内向的8割外向的2割」という
ところだろう。
けっこう重症だ。

内向的なこと、
それはそれでいいことだと思う。
気質だから、いまから「友達100人できるかな」の外向的な人に
なれるとは思えないし、なろうとも思わない。
胸をはって内向的だ。

だけど内向的に没頭しすぎると、ふと「あっ、これは結婚できないな」と
確信する時がある。
いい歳して彼女すらいない自分。
結婚なんて非現実的すぎて想像すらできない。
実家で犬を飼って母と生活する毎日だ。
まず結婚しそうになかった私が、
何故か数年後には結婚した。
母親もビッリク。私もビックリだ。

同じく内向的な人で、以前の私と同じような状態の
人がいるんじゃなかろうか、と思って今回の記事を書く。
今になって思う。
どうしてパートナーと出会えたんだろう?
無意識に、そういう方法を実践していたのか?
なにかそこから抽出して、エッセンスが見つけられないだろうか。

そういえば、奥さんと独身時代に
「出会うために何をしたのか?」と話し合うことがあった。
その時、二人が共通してしていたことがあった。
共通点、エッセンス。
それは2つあった。
それを書いていく。

 

1,「どんな人がいいのか書く」

パートナーが欲しい、と漠然に考えている人が多いんではないだろうか?
私はこういう人がいい、という条件を詳細に書きだした。
「犬を飼っている」「ヨガをしている」「やさしい」「倹約家」などなど。
こういう要素をもった人がいい、と具体的にした。
「そんな人が本当にいるのか?」とか「あれもこれもと欲張りすぎ」とか
考えずに「こういう人がいい」という要素を書きだした。
奥さんもこれをしていた。
注意的は、具体的な要素を書くのであって、
具体的な人を書くのではない、ということだ。
たとえば、向井理君と結婚したい、とか書かない。
職場の◯◯さんと結婚したい、とか思い込まない。

そういう限定は視界が狭すぎるし、その人が
あなたと縁のある人じゃないかもしれない。
あくまで要素を書いていく。

私は石川県に住んでいるんだけど、
結局、私の条件に会う人は県外にいたようで、
奥さんは千葉県からやってきた。
「引寄せの法則」ってこういうことだ。

これはけっこうありきたりで基本的な事だけど、
「具体的に書き出す」ことは重要だ。

昔「だれか紹介してくれないか?」と何故か人脈に乏しい私に言ってきた人に
話を聞くことがあった。
「どんな人がいいの?」と、とりあえず聞いてみると、
「若くて可愛い子」というものだった。
これは人間を探す条件とはいえない。
かなり引いたし、その人が独り身の理由がもわかった。
どんな性格で、どんな価値観をもっていて、何が好きなのか、という
ことは語られないまま、なあやふやなもので漠然としている。

具体的になればそれは力を持つ。
私の場合、条件に適合する人は千葉にいた。
条件が具体的であれば、現在はネットワークが全世界に繋がっているので、
人に出会うことはたやすい時代になっている。
これが200年前の人の移動が馬で、ネットの無い世界だったら、
私と奥さんが出会うことはなかっただろう。

 

 

次のステップは斬新だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

2,「諦め流れにまかせる」

具体的にして、そして、諦めた。
鼻息荒く、婚活などをしない。
自然に任せる。
それと同時に「具体的にした要素をもたない人」との付き合いも諦める。
妥協しない。
これは結婚することを諦め、肩の力を抜いてリラックスするからできることだ。

逆にいえば「だれか私と結婚して!」と血走ったオーラで
いろいろな人に声をかける人。
もうだれでもいいから寂しいから付き合う、
みたいな自分を安売りする人が
魅力的だろうか?ということだ。
諦めてリラックスして、妥協しない人はそれだけで、
「自分の人生は価値がある」という魅力がある。

それにバタバタと努力しても大変なだけだ。
努力して自分を飾ってもいずれ壊れる。
付き合うことはゴールじゃないし、結婚もゴールじゃない。
自然に付き合って、自然な流れで結婚する。
というのが一番無理がない。

流れにまかせる。
自分の人生を信頼する。
そういう態度は、自分の中にある焦燥感にあなたが
巻き込まれない生き方だ。

意識が同一化した対象は良かれ悪かれ成長する。

寂しさに意識が同化してしまうと、さらに寂しい人間になる。
自分に声をかけてくれる人が見えなくなる。
だったら、いまこの瞬間にどこかの空の下で生きている未来のパートナーを
想像しよう。

具体的にパートナーの条件をきめて、現れるのを待つ。
現れなかったら?
ずっと一人のままいればいい。
結婚は妥協してするものじゃない。
最初はよくてもいずれ破綻するだろう。
昔は結婚は労働力の確保のために必要だったけど、
機械化された現代では一人でも生きていける。

一人のとき、私が心の拠り所にしていた言葉がある。
ブッダの言葉だ。

もしも思慮深く聡明でまじめな生活をしている人を
伴侶として共に歩むことができるならばあらゆる危険困難に打ち克って、
こころ喜び、念いをおちつけて、ともに歩め。
しかし、もしも思慮深く聡明でまじめな生活をしている人を
伴侶として共に歩むことができないならば、
国を捨てた国王のように、また林の中の象のように、ひとり歩め。

 

人生は妥協の連続かもしれない。
けれど、パートナー選びは妥協してはいけない。
問題のある人と一緒になるくらいなら、軽々と一人で生きたほうがいい。

 

 

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Category: ヨガ的かんがえ, 家族, 生活を変える方法

- 2015年2月25日

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