不思議の国のマイノリティ

ヴィーガンになって1ヶ月と2週間。
不思議の国を旅している気分だ。

はじめ、ヴィーガンになるとはただの食事の選択で、
いつでも元にすぐ戻れると思っていた。
しかし、そんな簡単なものではなかったことを
知ったのは後のことだ。

この間、付き合いでどうしても肉と魚を食べないといけない場面で、
私はヴィーガンを隠して食べた。

ヴィーガンであることを説明する苦労と、あらぬ誤解を避けるためには
それがベストだと判断した。

もちろん、肉も魚も美味しかった。
私は、これらの味に不満があってヴィーガンになったわけではないので、
大変満足した。
旨いですね!と言ってから1時間後、急に猛烈な吐き気がしてトイレに行くと、
嘔吐して、全部吐き出してしまった。

コレハナニ?
いくら脳で肉食にゴーサインをだしても、体がそれを受け付けなくなっていることに
始めて気づいた。

これはよくある話らしい。
生まれながらにベジタリアンのインド人曰く、
日本にきて肉が入っていないと聞いて食べたものの中に肉が混じっていると、
嘔吐してしまう。
一口食べると肉が入っているのがわかる。そういう時は一口だけで
やめたほうがいいよ、とのこと。

幼い頃から培った肉食への耐性は、たった1ヶ月で失われた。
ここから、元の雑食に戻るにはリハビリが必要になる。
ヴィーガンは、あらゆる加工食品に動物の血肉や分泌物が入っている社会から
逸脱した世界に生きることになる。

生まれ育ったこの街が、まるで外国のようになってしまった。
家族と連れ立って外食に行っても、食べられるものがぜんぜんない。
なにを買うときも、かならずパッケージを確認しないといけない。
好きだった柿の種にも、動物性のエキスが入っているのにはがっかりした。

捨てるものが多い。
けれど、その分、得るものもある。
大豆ミート、タヒニ、レンズ豆、ピーナツバター。
ここ1ヶ月でいろいろな食材に出会って、
生活が豊かになった。

けれど、困難になったのは人間関係だ。
ヴィーガンという食生活は、まったく抵抗なく続けられるけれど、
人と食事をする機会があったりすると、あまり馴染みがない
食生活なので説明は困難を極める。
おまけに在家の仏教徒が守るべく五戒も守っているので、
飲酒もできない。

お酒を飲まず、肉も魚もあらゆる動物性のものを口にしない人。

こんなブログを読んでいるあなたならば、
側にヴィーガンがいても、大丈夫だろうけれど、
ヨガや運動や食生活や瞑想に興味がない人にとっては、
私のような人間は、ありのままに説明すると
きっと物凄い違和感を与えると思う。
一言、「怪しい!」のだ。

なので、そっち系のことに興味がなさそうな人には
自分のことは食あたりになってからだんだんと
動物性のものを食べられなくなった人で、
お酒は飲めない一滴も飲めないんです、と説明している。

かなり説明不足であることは否めないけれど、
これで不必要な人間関係の摩擦は避けられる。

鮭で食あたりをして、血を吐くほど嘔吐したのは
事実で、(それからだんだんとベジタリアンの勉強をして健康と動物愛護の観点から
ヴィーガンになった)
お酒も(五戒を守るため)一滴も飲めないという
ことも事実だ。
カッコに囲われた部分を語れる人って、そうそういないのだ。
(ちなみにまだ、母親にはカミングアウトしていない。きっと猛烈に心配して
やせ細ってしまうから肉を食べろ食べろ言うだろう)

いつの間にかすっかりマイノリティ(少数派)だ。
仏教徒とは、世俗の流れに逆らうもの。
ヴィーガンも同じで、生きづらさは倍増。
でも、これは当然のことなのだ。
竹原ピストルが歌っている。

暮らしづらいのは街のせいじゃない。
暮らしづらいのは、大丈夫、夢があるからさ。

なにも考えず、いつもの惰性で、みんなと一緒で生きるのは楽だ。
けれど、何かしらの理想を持ち「いつもの、なんとなく」の
流れに逆らい、生きることが楽であるはずがない。
暮らしづらい、上等なのだ。

 




Category: ベジタリアン

- 2017年7月31日

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