禅の奥義がこれ?「三昧王三昧」に至る方法

金沢の禅寺である「大乗寺」の日曜坐禅会にいった時のこと。
毎回、法話がありその回は、住職による正法眼蔵の解説。
「三昧王三昧」の章。

これは「三昧」つまり坐禅の極みの状態の
さらに極みの「三昧王」のことを書いた章なのです。
どんな凄い秘密が書いてあるのかと想像するでしょうが、
書いてあることは

「結跏趺坐しろ!(座れ)」

なのです。

そのテキストを意訳して書くと

「三昧王三昧とは結跏趺坐である。(ヨガでいうところのパドマーサナ)
結跏趺坐すると、一気に仏のレベルにあがり、その功徳は尽きることはない。
魔王も手出しができないし、結跏趺坐している修行者の絵をみるだけでも
恐れおののくほどである。すべての三昧は結跏趺坐で得られる三昧王の
家来であり、釈迦も過去の7仏もすべてこれで仏ある。
身体の結跏趺坐すべし。
心の結跏趺坐すべし。」

という結跏趺坐がすべてであるとの言葉。

同じく道元禅師の「普勧坐禅儀」にもいかに結跏趺坐が
重要であるかが書かれてあると住職。
つまりは、

「身体の形を整えることが、最高に重要である」

と繰り返しおっしゃる道元禅師。
ヨガ風にいえば、
アーサナが完成すれば、その他の支則は自動的に
開始され、おのずと完成するのである、という感じ。

心はどこにある。
生きている限り、体とリンクして存在している。
だとしたら、姿勢をみれば心の姿勢もわかる。
だらしなく横たわっている時に、心が冴えた状態である
ことはない。
逆に言えば、姿勢を正せば心も正される。
身体の結跏趺坐すべし。
心の結跏趺坐すべし。
シンプルだけど、ディープ。

ちなみに金沢の曹洞宗の禅寺「大乗寺」では、
いまでも修行僧の方々がいる。
朝の4時30分からの早朝坐禅から修行をスタートする。
その早朝坐禅には、だれでも参加できる。
坐禅のあとは、本堂に移って修行僧と一緒に読経もする。
坐禅1時間、読経30分くらいの時間割。
私も100日ほど通ったことがある。

有意義だった、とくに読経が学べたのが大きい。

最初はたどたどしかったけど、100日ほど通うと
お坊さんのセッションに溶けこむことができてサマディだった。
尋常じゃなく朝が早いので、参加はとても大変だけど
禅に興味があるなら、おすすめ。
出家しなくても、お坊さんと同じ修行が朝だけできるぞッ。

とはいえ、日曜坐禅会のように手取り足取りいろいろ教えては
もらえないので、自主性をもって参加しよう。

 

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Category: 瞑想, 読書

- 2015年3月3日

Comments

  1. 今日、はじめて「大乗寺」の日曜坐禅会に参加してきました。
    坐禅堂から数人あふれてしまうくらい、多くの参加者がいました。

    「結跏趺坐のまま30~40分なんて、オレ大丈夫かいな?」
    「脚がしびれて、自分だけ立ち上がれなかったらカッコ悪いな。」
    などと、最初は不安がいっぱいでしたが、
    挫蒲(お尻の下に敷くクッション)のおかげで、
    脚がしびれることもなく無事終了しました。

    坐禅の前に、はじめての人たちだけが集められて、
    お坊さんから、いろいろ教えて頂きました。

    「坐禅中は、心の中を『無』にするのが理想ですが、
    それは、最初からは無理ですから、
    まずは、自分の呼吸を1から10まで数えることを
    繰り返してください。」
    とのことでした。

    トシカズ先生が、おっしゃていた『呼吸瞑想』の意味が
    少しわかったような気がしました。

    • 大乗寺の坐禅会、いいですよね。
      私が行ったときは「思いは受け流してください」という
      指導でした。
      ムーさんのときは呼吸を数える数息観だったんですね。
      曹洞宗は数息観はしない流派なんですが、
      臨機応変に指導されているみたいですね。
      数息観は呼吸瞑想の前段階で、呼吸に意識が向けられるように
      なったら補助輪を外すように数えるのをやめて、
      言葉ではなく感覚に意識をむけるといいですよ。

  2. トシカズ先生
    ご返信頂き、ありがとうございました。
    そうでしたか。
    息を数えるのは、自転車の補助輪のようなものなのですね。
    やっと「瞑想」の扉の前に立った(坐った?)ところなのですね。

    「瞑想(坐禅)」は、
    個人が本来持っているはずの「仏性」に至る(戻る?)道程を
    障害しているいくつもの扉を
    ひとつひとつ開けていくための唯一の手段だ!
    ・・・みたいなことを
    昨日、大乗寺のお坊さんがおっしゃっていたように思います。
    (もしかしたら、わたしの思い違いかもしれませんが・・・)
     
    いずれにしても、奥が深いです。

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