99%はグル(師)いらず

私には現在、師と呼べる人がいないし、
たぶん、これから先もいないだろう。

スピリチュアルやヨガ界の偉い人たちのスキャンダル
を聞いたり、実際に会ったことのある語ることと現実が
マッチしていない指導者や「こいつは怪しい」と
私のゴーストが囁く人たちをみるにつれ、
師と呼べるような人がいないという確信は強まるばかりだ。

そういう時に、スポーツのことを考えると、
その風通しの良さに心が清々しくなる。

たとえばこの前体験したボルダリングでは、ちゃんとルールが
決まっていて、大口を叩いていて講釈している大先生風の人間が
いても、その人の真偽などは考える必要がない。
難易度の高い壁に立ち向かう姿を見せてもらえたら、一目瞭然だ。
ボルダリング界で、偽グルとして一旗あげるのは相当難しい。

ケトルベルならば、パベルツァツーリンという指導者は
「エリート(指導者)ならば自分の体重の50%の重さをミリタリープレスで
持ち上げられなければならない」という具体的な基準を打ち出しているので、
やはり、口先だけの人間など一人もいない。

だけど、スピリチュアル界では嘘をつくことに罪悪感のない役者の
ような人や、信者を獲得して金を得るためのキャラ作りで
まったく実体がともなわない人気をはくして、偽グルとして
かなりのところまで行ける。
そもそも、そういうグル(師)を求める人は、
自分の内面の現実から逃げて、外側にすがりつくための杖を探しているので、
すすんで騙されてくれる、という側面がある。

名前は書かないが、以前、いい瞑想の指導者がいると
紹介されて行ってみたところが、一見してわかる偽グル感で、
あって5分で後悔したことがあった。

それからはもう演技のアラしかみえなかった
けれど、そんな大根役者のところでも、涙を流して喜んだり
相談したりしている人たちがいて、二重に驚いたことがある。
いつの世も、素直な人には事欠かないのだ。

だいたい、師(グル)なんているのだろうか?

私は在家の人間で、仕事をしていて、家族がある。
あなたはどうだ?
似たり寄ったりの在家の人間だろう。

だとしたら、師なんていらない。

何故ならば、私達に必要なものは、
特別なものではない。
グルに授けてもらうような秘伝などいらず、
小学生にでもわかる当たり前のことを
当たり前にきちんとやるだけで、
もう十分なのだ。

レスリングに例えると、仕事や生活に追われて、隙間をみつけて
レスリングをしているアマチュアのあなたには、
メダリストを大勢輩出した栄監督の指導はいらない。

同じように、ヒマラヤで学んだ特別な方法の伝授などいらない。
もしそれが本当の秘教だとしても、
あなたにはオーバースペックなのだ。

レスリングで考えてみよう。
オリンピックメダリストになれる練習を授ける、と言われて
週に10時間も練習できていない私やあなたが、ほいほい受けに
行っても、あまりのハードさに失神するか怪我をするかのどちらかだ。

 

弟子の準備ができた時、師は現れるという言葉がある。
逆に言えば、準備が整わないのに師を探しにいっても
ダメだということだ。
99%の人は、自分が知っている、当たり前の修行で十分で
特殊な知識をさずける精神的なグルなどいらない。

たとえば、これは出来ているだろうか?

規則正しい生活。

腹八分目。

未加工の植物性のものを多く含んだ健康的な食事。

運動の習慣。

本を読む。

整理整頓。

掃除。

親の世話をする。家族の世話をする。

人の悪口を言わない。愚痴らない。

困っている人には親切にする。

自分がされて嫌なことは人にはしない。

やる必要があることは嫌なことでも先延ばししないでする。

今の自分に与えられた仕事に最善を尽くす。

五戒を守る。
(暴力をふるわない、嘘をつかない、盗まない、性的や過ちをおかさない、酒などの
酔わせるものをとらない)

朝1時間、夜1時間の瞑想(プラスαこれ)

私を含め、99%の人はこれらの誰にでも理解できて、
誰でも知っている修行ができていない。
小学生でも知っている基本的な修行をほっぽりだして、
一体どこに行くのか?

身近な修行から逃げて、
グルに裏技を授けてもらおうとしても、
人生は好転しない。

いままで一番、暗い目をした子供は、
自分の家族をほっぽりだして、さまざまなグルを訪ね歩いて
いた人の子供だった。
その子はきっと、寂しくて寂しくて、心に穴があいて、
それが空虚な心が目にあらわれていて、私は言葉がなかった。
親であるその人が、いかにいろいろなヨガの秘術を知っていても、
そんなことよりも、先に大事なことがあるのだ。

足元を見よう、自分の子供の心を満たしてやれない、基本ができていない
人がグルを探し求めても、2流の人には偽グルしか現れないから。

現在の私はそれらの基本的な修行をしながら、
呼吸の瞑想をしている。
頭の中に自然に生起している考えや記憶に意識を向けずに、
自然な呼吸に意識をむける、というシンプル極まりない瞑想だ。

ブッダダーサ比丘の「呼吸によるマインドフルネス」の
西洋人の弟子が書いた注釈の部分には、
ただひたすらに呼吸を見守るというステップ1から次に行くべき
基準が書いてある。
「1時間かそれ以上、体を動かしたいという欲求がまったくなく、
快適に、十分リラックスして座っていられること」
これが瞑想の基本体力なのだ。

 

 

私は床にアグラで座って子供の運動会を観ている時に、
その姿をみていた隣の父兄に
「あの人は絶対にヨガをしている」と言われるほど
傍からみて座る能力が高いけれど、
恥ずかしながら、この基準をまだクリアできていない。
意識はあっという間に考えや記憶にそれてしまうし、
30分もすれば「動きたい」とムズムズしてしまう。
だから、当面の目標はこの1時間でも快適に過ごせる座力を
つけることにある。

もしも、瞑想の師がいたとしても、
そんな初級のステップをクリアしていない器のできていない人間には、
何も注いでやれないだろう。

だから、私には師はいらない。
やらないといけないことはわかっているから。
どこにも行く必要がない。
世の中の99%の人は、ここに書かれた基本的な事柄
を修行しているだけで十分で、グルはいらない。


Category: 瞑想

- 2017年11月7日

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