本当の意味で自由な人

 

自由になりたい、と思わない人はいないだろうし、
「あの人は自由に生きているなぁ」と思える人をみると
羨ましくなる。
好きな時間に寝起きして、仕事に縛られず、
自分の興味のままに人生を送る、、、私の自由のイメージは
こんな感じで、これがみんなが描くだいたいのイメージだろうと思う。

でも、実は世の中を見回しても、
本当の意味で自由な人はいない。
これには理由がある。

私の知り合いに
「自分の人生をやり直す!まともな人生を生きる」と堅い決意をした人がいた。
でも、数週間たつと以前の悪い道に戻って、
好き勝手気ままにしている。
ある意味、自由に生きている。

だけど彼は自由に生きている、とはいえない。
自らの悪習慣に命ぜられるがまま支配されて、
「本当はいいとわかっている人生」を生きることができない。
彼は自分の奴隷だ。
人生をやり直す決意は、悪い主人にあっという間に
潰されて、もとの奴隷に戻ってしまった。

私達が「自由にする」というとき、
それは自分の心に思い浮かんだ欲求や嫌悪に従って
そのまま実行するだけの話だったりする。
食べたいものを食べ、したくないことはしない。
でも、それを好き嫌い命令しているのは、
ふらふらと移り変わる心だ。

以前、心と体は「私」のコントロールを離れた
世界に左右されるものだと書いた。
そうなると、私達はただ自分の心に思い浮かんだ欲求と嫌悪の
奴隷にすぎなく、なんの責任もない存在になってしまう。
心も体も私のものじゃないなら、その責任も私にはない、
なんて、話になる。

でも、かなりのところまでコントロールできることもある。
これが希望の光明だ。

コントロールできるのは「認識と選択」と「行動」だ。

たとえば心に「ドーナッツを食べたい」という欲求が思い浮かんでも、
それに従わずに、もっと健康的な食品でお腹を満たすこともできる。
怒っている最中は、自分が「怒っている」と認識することができる。
もしも、怒りが湧いた瞬間に即座に怒りと一体化してしまうのが
人間だったら、とっくに人類は滅びているだろう。
思う浮かぶ心にはスペースがあって、どんなときも選択することができる。

「行動」は恐怖を感じているときに姿勢を正すこともできるし、
感情で呼吸が浅くなっているときは、意識的に深い呼吸をすることもできる。

この2つはかなりのところまでコントロールできる。
前者の「認識と選択」はヴィパッサナー瞑想とかマインドフルネス瞑想と
いわれる系統だ。
後者の「行動」は、ハタヨガと呼ばれる行動のコントロールで
心を統治しようという系統だ。

厳密にこの2つは分かれているわけではなく、
どちらがメインになっているだけで混ざり合っている。

ブッダの教えの根幹を示した言葉に、

「悪いことは行わず、善いことを行ない
自らの心を清めること」

というものがある。
悪いことをしない、善いことをするは「行動」だ。
自らの心を清めることというには「認識と選択」だ。
(分類するとそうなるけど、人の中ではこの「行動と認識と選択」は
そんなに厳密に分けられるものじゃない。
行動を支える認識と選択もあるし、認識と選択を支える行動もある)

瞑想中にしていることは、心の働きを弱めることだ。
たとえば呼吸の瞑想では、意識を呼吸にむける。
それは心の欲求や嫌悪に関係しないものだからだ。
「息をするのが嫌だ」と思う人はいないし、
「息をするのが大好きだ」と思う人もいない。
生まれたときから魚にとって水があるように、
呼吸はあたりまえすぎるあたりまえで、
好き嫌いを超えたものだ。

心にはいろいろなことが思い浮かぶけれど、
呼吸に意識をむけることは、それらを選択肢しないという
選択をすることになる。
ただ、呼吸をするだけの存在になって、心に従うのを休止するのだ。
そうなると、心という暴君の力が弱まって、
幅広い選択肢のなかから選んで生きるという自由がすこしは生まれる。

悟りを開いた僧は、心が作り出す人為的な欲望も嫌悪もないから、
つねに自由だろう。
けれど、社会に関わって生きる俗人である私達が目指せるのは、
「常に幅広い選択肢を見回して、最適なものを選ぶ自由」くらいだろうと
思う。
それだけでも、もの凄く大きな力だ。


Category: エッセンシャルヨガ, 仏教

- 2016年5月10日

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