体と心は私のものじゃないという結論

 

最終的に、所有できるのは「心と体」だ。
シンプルに「私」というとき、それは心と体の
ことを指す。
しかし、結論からいうと「私」のものは
何一つない。
仏教的にいうとそうなる。
嘘みたいな結論だ。

私自身、完全に納得して体感しているわけではない。
でも、理屈はわかる。
もしも「私」があるとしたら、それは
自分でコントロールできるものであることが前提だ。

自分でコントロールできないものは
「私のもの」と言えない。
見ず知らずの他人を「私」と言う人はいない。
なぜなら、まったくコントロールできないからだ。

体と心が「私」ではないのには理由がある。

まず最初に体とか心とかわけて話しているけれど、
体はむきだしの心だ。
体も心に含まれているのだ。
体は目に見える心なのだ。

その証拠に、心は体から独立していない。
もしも心が体から独立していたら、素っ裸で真冬の寒空の下にいるとき
まったく「寒さ」と関係のない思考に没頭できるはずだ。
でも実際、体が危険な寒さに晒されたら
心は「いかに寒さを避けるか」という思考に圧倒される
だろう。

人は体というむきだしの心を世界にさらして生きている。
そして、体は環境に影響される。
食べる物や、住む場所、周囲の人々、すべてが体に影響を与え、
同時に心にも影響を与える。
世界をコントロールできるという人はいないから、
私は外の世界のさまざまな刺激に左右されて、生きていることになる。

私は世界の繋目はない。
「私」は体と心を超えて、世界にも広がっている。

だから「私」が変わるのは思うほど難しいことじゃない。
というか「変わらない私」が不可能なのだ。
季節におうじて、考え方は変わる。
会う人によっても変わる。
一秒ごとに細胞は変化していく。
気づいていないだけで、私は始終変わり続けているのだ。
仏教ではこれを3つの言葉で説明している。

コントロール不能(ドウッカ「苦」)
変わらない私はいない(アナッター「無我」)
何事も変化していく(ウニッチャ「無常」)

ひとつとして否定できず、経験可能なことばかりだ。
不変の私はいない。
これは理屈的にはっきりしている。
でも、この「私」という感覚はなんだろうか。
頭では理解できても、すこしも「私」から脱することが
できない。
「私の物」「私の人生」はハッキリある。
いろいろ縛られて、かろやかに生きていくことができない。

ここから飛び立つには瞑想が必要だ。
仏教やヨーガは哲学としての側面ももっているけれど、
それでは片手落ちで、実践が必要ということ。

頭で考えて、人生ラクになったりするなら哲学者はみんな朗らかで
活き活きした人のはずだけど、
実際は体動かしていきている農家のおじさんのおばさんのほうが、
いい顔して生きている。

だから瞑想の中で自ら観察して、体験することでしか
私の目は覚めないんだろうと思う。

 


Category: 仏教, 瞑想

- 2016年5月9日

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