ダンマパワーにおまかせ
「法」と翻訳される「ダンマ」
法と聞くと、法律のようになにかしらのルールという
イメージがある。
無機質で、概念的で、死んだもののように感じる。
だけど、最近「ダンマ」は生き生きとした
宇宙を動かすパワーであるというイメージに変わった。
「ツールズ」にある「ハイヤーフォース」という
目に見えない偉大な働きをする力に触発されて、
そうなった。
ダンマはまさにハイヤーフォースだ。
もし、この世にダンマがなかったらヨガも仏教も
なんの力も持たない。
ヨガも仏教も、ダンマのパワーを働かせる水路で、
エネルギーそのものではないのだと思う。
自ら修行者で、仏教の研究者でもある玉城康四郎先生の
著書「冥想と経験」を読んでみると、こういう記述がある。
<ダンマは経典のなかでさまざまな意味に用いられているが、
その根本的なものは、釈尊をして成道せしめているところの、
その力である。釈尊は、ダンマの開示によって、すべての骨肉の
間を踏みこえて覚者となったのである。
それは無形の力であり、まさしくわたし自身において開かれてくる。
それこそ、釈尊のいわれる「自灯明、法灯明」であることを、
わたしは自身の冥想において認知することができる>
悟り、というのはダンマがこの心身に顕れて、
顕現することと言い換えることもできる。
ダンマが人間に宿ったのがブッダだ。
そのブッダをめざし、ダンマを体現すべく修行している
集団がサンガだ。
仏教の三宝の要は「ダンマ」なのだ。
だから瞑想は、自力で開かれるものではない。
無形のエネルギーであるダンマを受け入れる
受け身の努力というわかりにく努力がいる。
それは、おれが自分でゲットするという自我の
働きを抑えた努力だ。
そんな受け身の努力をするには、ダンマの存在を
信じるしかない。
とりあえず信じると決めて、
行うしかないんだろう。
ヨガや仏教でいう「信」は、
「伝統的な教えだから」とか「先生が言ったから」
盲信する「信」ではなく、
自分の体験で確かめて、確認して養う「信」だ。
試行錯誤して体験としてダンマの力が
信じられるようになったら、
それはとても大きな力なんだろう。
そういう概観が理解できたら、
毎日の瞑想が「おれがやる」というものではなく、
祈りのように謙虚なものになる。
「おれが大きく偉大になる」のではなく、
大きく偉大なものを受け入れる空っぽさ
が必要になってくる。