人生の無意味さを打ち破るハンマー

疲れていると虚無感に襲われる。
人生が無意味に思える。
たとえば私がランナーならば、いくら鍛えても
年老いていけばタイムはどんどん遅くなる。
そして、努力はすべて老いと死に打ちのめされて、
私は消滅して、忘却の彼方に消える。

私の祖先は静岡の天龍村に住んでいたと
戸籍でわかっても、その人たちの
情報は名前が残っているだけで、
まったく忘却されて、ただの遺伝子情報と
して私の中にあるだけだ。
私も消える、それと同じように。

人生は意味を考え出せば出すほど、無意味だと確信する。
それに気づかないほうが幸せなのだけど、
この「人生は無意味だ」の思考は倒れた私の髪の毛を掴んで
起こして、何度も何度も繰り返す。
「人生は無意味だ、老いて死んで忘れ去られる」

そうだ、私は死んで無くなるけれど、
「私」の残すものは世界に残る。
なんて考えてみても、その「私」が
無意味(死)になって、確認できない
世界の意味など、死者の私になんの
意味があるだろうか?

ときどき私はこういう灰色の世界に入る。
何度か思考力を働かせて、ここから抜け出そうと
していて、あるとき大きなことに気づいた。

この灰色の世界を打ち破る方法はある。
うまく伝わるかわからないけれど、
今から説明してみる。

「人生の意味は?」と考えることは架空のものだ。
想像、概念、私の頭の中にあるデータだ。
「人生は無意味だから今すぐ心臓を止める」と
私は頭の中で同じ文章を読み上げても、
私の心臓は止まらない。

これを実行するためには、
体中に本物の感情がみなぎっている必要がある。
悲しみ、怒り、絶望感。
言葉だけで人は死なない。

「無意味だ!」と考えることで、世界を灰色にする
虚無感が生まれる。
概念は幽霊のようで実体がないけれど、
この感情は本物だ。
しっかりと実在する。

そこからは言葉で捕捉しなくても、
私の体は虚無感を体感する。
リアルなのは、この今、心の中にある
感情だけなのだ。

架空の思考で、言葉で、
本物の虚無感が現れるのならば、
その架空をハンマーで
打ち砕けばいいのだ。

 

たとえば私がランナーだとする。
歳をとればどれだけ練習してもタイムは落ちていく。
そう考えるとまったく無意味に思える。
それは「タイムという概念」に紐づけされた虚無感だ。
ここに心が閉じ込められていると、虚無感で動けなくなる。

ハンマーで打ち砕こう。

タイムが落ちた老いたランナーに残されたもの。

走る喜び。
運動の爽快感。

これはタイムが下がっても消えない。
世界は無意味かもしれない。
そんな無意味な世界でも喜びは奪われない。

タイムは下がっていく、走るのは遅くなっていく。
でも、少年の頃感じた、走る喜びと頬に感じる風は
老ランナーから奪われない。

たとえば、この文章はいずれ消え去る。
でも、私が今、考えてそして書いている喜びは本物だ。
無意味のなかに私は喜びを見出す。

愛しい人と話す喜びも今、ここにある。
愛する人も私もいつか死ぬ。
でも、今、ここで喜ぼう。

瞑想もそうだ。
悟れないかもしれない。
でも、今、ここにある静けさを味わおう。

私はいつか死んで消える。
でも、今、一生懸命に生きている
自分自身を慈しもう。

人生は成功かもしれない、失敗かもしれない。
でも、今、ささやかなやりがいを喜びを
みつけて、今、生きていく。

概念で考えると、この世には意味はない。
だけど、今、感じている心はリアルだ。
意味や無意味を超越している。

もともと無意味ならば、自分で
意味を、どんな風に人生を感じるかを
選ぼうと思う。

喜びや慈しみ、達成感が感じられるように、
概念を自分の手下にしていこう。

私の祖先、静岡の天龍村の人たちが
私に忘れ去られても無意味じゃない。

当時のご先祖様は、
いまの私と同じように、
一瞬、一瞬、泣き笑い、悩み、悲しみ、
全力で生きたんだろう。
本物の、意味や無意味を超えた心を躍動させて。

一瞬、一瞬が本物ならば、
それをつなげた人生が無意味であるはずがない。
私に忘れられているから無意味?
それはおこがましい。

もし、同じことを私の子孫が言ったなら、
「ぼくたちはトシカズさんのことなんて
知らないからあなたの人生は無意味ですね」
なんて言ったら、
私は「バーカ、余計なお世話だよ」と笑うだろう。
おれはおれで生きて、ちゃんと意味、実感してんだよ。


Category: エッセンシャルヨガ

- 2018年5月14日

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