絶望も希望にも流されない島になる

 

すごく大変だったときには、
希望が輝いていた。
しかし、絶望していたことが
一気に解消して消えると、
絶望も希望もない空白地にとりのこされた。
こんな気分は初めてだ。
それが数日前。
なんにもする気にならない。
手のかかる子供が成人して、空っぽになった家の
リビングに座りこむ育児ママの気分はきっとこんな
感じだろう。

よくよく考えれば、絶望がないところに
希望もない。
まったく苦しみがない生活には、
わざわざ希望なんて持ち出す必要がない。
希望は絶望の夜空に輝く星で、
真昼に星は眺めることはできない。

ここ最近の私は、希望が原動力だった。
それが絶望が消えたばっかりに希望も消えた。
問題は解決したけれど、逆に問題を抱えている時の
方が生き生きしている自分がいた。

まるで私は世間と相撲をしているみたいだった。
外に向って、力一杯押したり引いたりしていた
けれど、急に相手がいなくなって、転んで
土俵に激突したのだ。

こんなことを減らすためには、
人生の激流に押し流されない自らの島
作らないといけない。

ブッダの言葉。
この世で自らを島とし、自らをたよりとして、
他人をたよりとせず、法を島とし、
法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ」

外面的な人生は安定しない性質を持つものだ。
生活環境や社会、対人関係、自分の体。
コントロールできるようで、決定的な部分では
コントロールできない。
だから、それに流されて翻弄されて一生が終わることが
ないように、内面を強化しよう。
内面の深い部分は、外面的な世界から離れている。
そこに触れる時間を増やせば増やすほど、
それが外面的世界への緩衝帯になる。

ようはまだまだ瞑想が足りないということだし、
なにかしらの欲望に突き動かされて、瞑想するのではなしに、
もっと純粋に瞑想のために瞑想してこそ、
本当に瞑想に触れることができるんだと思う。

 


Category: 未分類

- 2016年2月18日

コメントを残す

Your email address will not be published / Required fields are marked *