自分で作る瞑想の椅子

瞑想というと、一般的なイメージは
「集中する」
というものだろう。

でも、もう一つの瞑想がある。
それが観察する瞑想だ。
今おこっていることをありのままに観察する。
判断を下さずに純粋に感じるのだ。
マインドフルネスともいう。

伝統的な瞑想世界では、
集中瞑想(サマタ)を積んでから、
観察瞑想(ヴィパッサナー)に入る。

そこで考える。
「いきなり観察瞑想じゃ駄目なのか?」
それは裏返すと「何故、いきなり観察瞑想できないのか?」という
ことになる。
集中を飛び越えて、観察に入ることは可か。

瞑想中に一体何を観察するのか、というと「心」だ。
昔の偉いお坊さんたちは凄いもんで、ヴィパッサナー(観)の
翻訳に「念」という漢字を当てた。
「念」という漢字を分解すると「今の心」である。

今の心を観察すること、観察はつねにリアルタイムなのだ。
私たちの通常の意識は、つねにぶっ飛んでいる。
考えは飛躍できる。
5年前の過去のことを考えたり、
明日の大変な仕事に憂鬱になったりできる。
今、現在のことを考えるという状態でも、
「過去の経験を参照する」という作業をして、
やっぱり心は過去にゴーだ。

人間の機能は素晴らしい。
でも、大半を今の心で生きる動物から見れば、
体はここにあるけれど、心は時空を超えて彷徨っているという
心ここにあらず状態が常態化している。

そんな状態で「観察しよう」とすると、
かならず意識は心に巻き込まれる。

th_music-545770_640

 

心がダンサーだとしたら、
「仲間のダンスを観察するぞ」と決めてもいざ、音楽が流れだし
仲間が一斉に踊りだすと、気がつくと夢中で一緒に踊っているだろう。
もう「見ることが踊りだす」ことなのだ。
立って側でみていると、音楽と仲間の踊りの誘惑に耐えられない。
気がつくと踊っている。
必要なのはチェアに座ることだ。
座って、踊りださないようにする。
そうすれば音楽がなって仲間が踊りだしても、
簡単にダンスに巻き込まれなくなる。
あなたは椅子に深く座り、踊りを観察する。
激しい怒りの踊り、欲望の踊り。
でも、あなたは椅子から立ち上がって、踊らされない。
しっかりと観察している。
そうすると怒りのダンサーも欲望のダンサーも、
あなたを誘えないことに疲れて、ステージから消えていく。
これが観察の瞑想だ。

まず座ること。(集中)
それから観察。(観察)
「集中」から「観察」の関係はこういうことだ。
座ってないと観察できない。

呼吸の瞑想では、まず最初に実際の呼吸にひたすら意識を
むけて感じる。
これが椅子を作る作業なのだ。
「今にあるという感覚」が生まれる。
そこから観察力が生まれる。
それを使って、いろいろなものを観察していくのだ。
ちなみに、椅子に深く座って、座ること以外に心が外にそれない常態を
サマディ(三昧)という。

瞑想の達人アーチャン・チャーは
「集中瞑想と観察瞑想ははっきり別れていない」といった。
それは椅子に座ることで観察できるようになることだ。
集中力が作る瞑想の椅子はどこにでも持ち運べる。
呼吸で作る方法がメジャーなのは、
呼吸が生きている限り、つねに一緒にあるからだ。

ちなみにタイ仏教のアーチャンチャー師は瞑想をこうたとえている。

「気づきを保ち、物事をその自然のままにさせておきなさい。
そうすれば、どんな環境にいようと、あなたの心は透明な森の池のように
静まっていきます。
その池には珍しい動物が水を飲みにやってきたり、あらゆる種類の
さまざまなことが生じるでしょうが、あなたはこれらの現象のありのままの
姿を明晰に観察します。
さまざまな、奇妙で不思議な現象が去来しますが、あなたは澄み切って静寂なままです。
これがブッダの説いた幸福なのです。」


詩的で美しい言葉だ。

 

 

 

手放す生き方(サンガ文庫)
アーチャン・チャー
サンガ
売り上げランキング: 94,638

Category: エッセンシャルヨガ, 瞑想

- 2015年2月21日

コメントを残す

Your email address will not be published / Required fields are marked *