自我としての「私」は孤独だけど

 寂しいけど、寂しくないという感覚。

以前、金沢の大乗寺の早朝坐禅に行った。
帰り境内の大きな、樹齢何百年もの大杉を見上げて思った。

「この杉はこの境内を歩く何万人もの生死を
みてきたんだろうなぁ。
人間が生まれて、そして死んで行くのを見て来たんだろうなぁ」と。

そして、私が老いて、死んでもこの大杉はまだあり続けるんだろう。
そうなると、途端に孤独を感じた。
杉と私は切り離されていて、私はパーティで話す人もいなくて壁に
たたずむ人のような感覚があった。

でも
ふと思った。

自我としての「私」は孤独だけど、存在としての私は孤独ではない。
「私と大杉」というふうに完全に分離してわけて考える働きのある
エゴを働かせると、世界から切り離される。
それは孤独だろう。

私と私以外の世界。

だけど、早朝坐禅が終わったあとのあの日の朝は、
ふと、このエゴというものが大杉の前の弱まっていた。
もしかしたら、大杉の在り方が教えてくれたのかもしれない。
存在としての私は、まったく分離していないし、切り離されても
いない。

大杉たちの中で浮いていた私が、
「私」というものを心の中で置いてみると、
大杉の存在感のなかにとけこめた。

孤独になりようがない。

エゴは考えの世界にある。頭の世界の住人から、
感覚の世界の住人にモードを切り替えると、
なんの分離感もない。

大杉の姿をみると、私のなかに感覚がおこり、
匂いをかぐと、私のなかに感覚がおこり、
大杉に触れた空気が肌に触れると、私のなかに感覚がおこり、
鳥の声が聞こえると、私のなかに感覚がおこり、
私という存在は、密接にすきまなく周囲とセッションしている。
もう寂しくない。
そういう風に感じた。
感覚の世界の住人の私は、世界と分断されずに繋がっているから。

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Category: ヨガ的かんがえ, 瞑想

- 2015年2月15日

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