老化を楽しむ道
今年43歳の私。若者をみると、やっぱり自分との違いが嫌でも目につく。日々、失っていく若さ。芸能人なんかを見ると、自分とぜんぜん外見が違うので、さらにガッカリする。
私は「アンチエイジング社会」「若さ礼賛社会」に洗脳されている。
しかし、これは脆い道だ。アンチエイジングしている人は必ず最後には老化に打ちのめされて、敗北してしまう。これは負け戦だ。
一方、外国の目をむければ高齢者が元気で、かつ尊敬されて生きている長寿地区では「老人礼賛社会」も存在する。かの地では「今日は歳をとって見えますね」という言葉がお世辞になる。
老化が呪いとなるのか祝福となるのか、は価値観によるのだ。
だから、
日本のアンチエイジング洗脳社会に打ち勝つには、価値観を変える必要がある。
老化をさけて不自然なアンチエイジングに走る道ではなくて、
老化を楽しむ道だ。
どうやったら老化を楽しめるのか?
それは無理やり自分のシワやシミが良いと思いこむことではない。老化している、ということは長い時間生きているということだ。
たとえば、瞑想の道を進む者は、5年前よりも今のこの老いた今のほうが、瞑想に熟達している。
日々、自分の限界を押し広げるべく努力している人は、5年前の自分よりも進化している。
若い時しか通用しない専門分野があるとしても、人生をきちんと努力して生きている人は「生きる」というあらゆる分野が伸びて、人間力をトータルすれば、
以前の自分よりも進歩していく。
失った若さは、自分の内部にさまざまな資産として残る。
時間は失われていない。形を変えただけだ。
自分のスキルや心の向上を楽しむ、ということが「老化を楽しむ」ということだ。
以前、「若さ至上主義」というべき考えをもっている人と会話したことがあって、「もう歳をとったらオシマイ、若くないと駄目です」という結論を聞いたことがあるけれど、18歳の若者と、さまざまなことをマスターした老人を比べると、2人はイコールだ。
18歳の若者には、潜在的な可能性という意味で価値があり、
老人マスターには、自らの価値を顕現したという価値がある。
しかし、彼の言い分にも一理あるところがある。
日々を流されるように生きて、自分に善い変化を起こす努力を、精進を怠った老人は、若者に劣る。
長い時間はすべて流れていき、老いた体と空虚な内面が残るだけだ。
人生の失敗は、たとえば金がないことでも、地位がないことでも、結婚できないことでも、正社員になれないことでも、友達がいないことでもない。
それらすべてが無くても、自分の熟練したスキルと磨かれた心があれば、人は満足して生きていける。
逆に恐ろしいのは、金があり、結婚していて、地位もあり、友達もいるけれど、
ただの老いた体と空虚な内面しかない老人になること。
本多静六先生の口癖は「人生即努力 努力即幸福」1日1日努力していくならば、その1日はかならず残り、一日も失わない。
自分の価値を楽しむ幸福を味わう老人になるべく、楽しみたい。
More from my site
Category: 生活を変える方法