悩みがある?だから大丈夫

ふと気づいたんだけど、
あーだこーだと悩める状況は、まだ大丈夫だ。
完全なる不幸の力は悩むことを許さない。

たとえば、私の前に刃物をもった男がいて、
襲いかかってくるとする。
そんなとき「どうすっかなぁ」とあれこれ悩むことは
100%ない。
目の前の不幸の対応に、全神経はもっていかれ、
「私」という自我すら消え去るほどだろう。

つまり、悩んでいるということは、
余裕があるということで、今現在は幸せとは言わないまでも
マシな状態であるといえる。

たえば、
餓死しそうなときは、悩む余地がない。
「なんとしても飯にありつかないといけない」という
強い目的意識が明確になる。
老後の悩みはおろか、1週間後の悩みすらわかないだろう。

「世界平和のためにオレのすべきことはなにか」
とか崇高な悩みをもつ人でも、
突然、猛烈にウンコがしたくなったら、
「トイレはどこだ!」ということに
圧倒される。

とすると、悩みを消すのは今への集中力だ。

嫌でも集中させるようなハードな状況の中では悩みは消える。
足を踏み外すと死ぬような登山をしている人にとって、
明日の悩みなどない。

瞑想のように意識的に今に集中できる人は、それで悩みは消える。

でも、それって悩みをみていない現実逃避なんじゃないかと
言う人もいるけど、悩みは掴みどころがない魔物だ。
「今、どうしょうもないこと」
「未知でよくわからない」から悩むのだ。

飢えのように明確なものなら、「食べる!」という結論がすぐでる。
だけど、今の自分には結論がでないから、
右がいいのか、左がいいのか、と悩むのだ。
そして、結論からいうと悩みは一生消えない。
世の中はコントロール不能で、自分の力の範疇に属さないものに
満ちているからだ。
「まったく悩みなく、大安心で生きている」というのは、
もはや「悟りを開いた人」の心の領域なので、
そういう心境で生きている人は稀の稀。

脳は生存のための道具だから、もともと不安症なのだ。
暗闇でロープをみたら蛇だと思って、びっくりさせることで、
本当に蛇だった場合の危険を取り除く。
それは原始時代が終わった現代でも、危険になりうる可能性が
すこしでもあると脳はそれを増大して「不安」を作り出す。
だから、悩みがあるのは実は普通なのだ。
脳の設定がそうなっているからしょがない。

生きるということは、悩みと隣合わせ。
だから、どうにかできることはして、
どうにもならないことは受け入れて、今を生きることが
唯一できることだ。

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Category: ヨガ的かんがえ, 生活を変える方法

- 2015年6月28日

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