この世のありのままの記

 

ささいな遊びをして家族で笑った。
そして、今それはここにはない。
あのときは永遠に滅んでしまった。

この宇宙で、いままで何兆、何京の家族が団欒し
笑っただろう。
その痕跡は残っていない。
私達が死に絶えて、しばらくするともう何も残らない。

今、目にしているすべて、はじまりもおわりもない宇宙
の中では、夢と同等の質量しか備えていない。
私にとって世界はリアルだけれど、
核心はカラッポになっている。

神話では、宇宙は何度も死と再生を繰り返し、
永遠につづいていく。
はじまりも終わりも見えない。
ただエネルギーが変化していく。

この世界で、知覚できるもの、
把握できるもので、永続するものはない。
心も体も、記憶も、認識も、
すべてがこの世界に属していて、
滅ぶ性質のものだ。

それは頭で理解できている。
だけれども、家族を失うとき
私は嘆き悲しむだろう。
この世のありのままを私は体得していない。

あの家族での団欒は、
いつか必ず破裂する
苦しみの水風船に水を注いだ。
家族が愛おしければ愛おしいほど、
離散のときは苦しい。

以前、私には愛犬がいた。
いま亡き彼の記憶をたどると、
背後から悲しみが体に浸水してきて、
彼と遊んだこと、笑ったこと、彼のぬくもりがすべてが
裏返って、私の体感は悲しみに沈んでいく。
愛着が大きければ大きいほど、
悲しみは大きくなる。

あの震災のとき、もっともダメージが大きかったのは
持っている人だっただろう。
津波に家を流され、
家族を流されて、
一人生き残った人と、
旅行者としてたまたま、かの地を訪れていた人では、
同じ震災の痛みが異なる。

得ることの終末は痛みだ。

古代の出家者は、それを知り、無所有という道を選んだ。
彼らは犬など飼わないし、ゆえに私が持つ悲しみとは無縁だ。
なにかを失う苦しみから無縁になっている。

それができない私にたいする彼らの助言は、
「執着するな」の一言だ。

どうやって、そんな無執着ができるのか考える。
それは常に今を生きること。

失われて、消えてしまう私と世界には、
保存されている過去などなく、常に今しかない。
記憶というのは私の脳内のまぼろしだし、
映像も写真も、過去の劣化コピーだ。
それにフォーカスしないなら、
私は何も失わないだろう。
ただ、今、あることをあるものとして、
ないものはないものとして生きられるだろう。

いま、私は満ち足りている。
そういう順境で、「今を生きる」そう思うのはたやすい。
かならず来る逆境と滅びのときに備えて、
いまからいまに生きるという船を作ろう。


Category: ヨガ的かんがえ

- 2016年7月14日

コメントを残す

Your email address will not be published / Required fields are marked *