集中力(サマタ)の鍵

人生で何が重要かといえば、
それは集中力(サマタ)だろう。
これが鍵だ。

集中していないの反対は、
酔っ払っている状態だ。
酩酊した感覚にとらわれて、
酔っぱらいは自分の世界を吐き出したり、
ぐるぐるとさまよって笑ったり泣いたりする。
集中力を失い、人生の重荷がはずれ、
世界から逃れた感覚があるけれど、
それは二日酔いと
ともに灰色の世界になって戻ってくる。

仏教の根本的な生活ルール(五戒)に
お酒を飲まないが入っているのは、
集中力が無くなるからだろう。

ヨーガスートラは、いってしまえば
サマタ(集中力)の教科書だ。
すべての実践はサマディ(集中力の極み)に
至ることへと続いている。
それが独存へと導くとされている。

ヴィパッサナー瞑想(観察瞑想)を重視する仏教でも、
集中力は欠かせない。
それは高度な実践に至る必須のパワーだ。
ブッダは「集中力が養われれば、真理をみる」と
いっている。

読書も、没頭して読みこめば読書体験がぜんぜん変わってくる。
散漫な人がいくら名作を読んでも、なんの読書体験も得られないだろう。

瞑想が終わったあと、世界が色鮮やかに見える。
それは瞑想で集中力が高まった状態だからだろう。
世界の感じ方は、その人の内面の状態で変わってくる。
集中力を保って生きると、しっかり生きることができる。
毎日を充実させる鍵は「どんな特別で素晴らしい事をするか」では
なく、しっかりと生きるかという心の状態にかかってくる。
同じ仕事でも、考えごとをしながら散漫にするのと、
集中してするのとでは充実感が違ってくるからだ。

マインドフルネスという言葉が有名になっているけど、
これはつまに「今に集中して生きる」ということ。
現代はネットやスマホで散漫に生きることが簡単になっている。
それが充実感のなさに繋がって、さらなる悪循環をうむ。

ネットもスマホもなかったアナログでスローな時代と、
現代で、生活の充実感はどちらが上だろうか。
私は昭和の生まれでデジタルネイティブではないので、
両方の世界を知っている。
昔のほうが、世界は狭くて不便だったけど、
ずいぶん生きている感じがしたと思う。
それは情報がすくなく、意識が分散しにくかったことに
由来するんじゃなかろうか。
過去の哀愁で、昔は良かった式に色付けされた記憶かも
しれないけど、昔はもっとゆっくりと世界が動いていた
ことは確かだ。
ネットが現れるまえ、一冊の本を通して読むことは苦じゃなかった
けど、ネットに慣れてくると本を読み通すことが難しくなったという
話があって、それには私も同感だ。
人として劣化している。
人間の能力を保つには、アナログでスローな生活がいい。

で、今そういう風に生きることは、
たいへんな自覚と意志がいる。
私がいまだに電話はガラゲーを使っているのは、
これ以上、生活をネットに侵食されないためだ。
今年の目標はアナログ回帰。
ネットの時間を減らして、ゆっくりと本を読み、
ゆったりと一日を過ごすのが目標。
アナログ回帰は、集中力して生きると言い換えることもできる。

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Category: ヨガ的かんがえ, 読書

- 2016年1月29日

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