運命だと言えるように生きるヨガ

 

「これも運命だからしょうがないよ」
と言える人になりたい。
このあいだ、心臓の鼓動が異常になって怖い思いをした。
でも、私には「老化」以外の心当たりがない。
酒も煙草も飲まず、健康的な食事をし、運動をしている。
もしもこれで心臓が悪くなって死ぬのなら、
「運命だよね、だって最善を尽くして生活していたんだ」
心から言えるだろう。
後悔はない。

だけど、これが思い当たる節がありまくりで、

「ああ、脂っこい食事ばっかりせずにちゃんと野菜を食べて
運動しておけばよかった」

と病床で後悔すると辛いだろう。

「運命だよ」と自分に言えるような人生を送りたい。
最善を尽くさない人間は、運命だと軽々しく口にできない。
これは「4つの約束」で学んだことだけど、
最善とは、つねに同じパフォーマンスを発揮することじゃない。
病気のとき、元気なとき、疲れている時、いろいろな
状態の自分にできる最善を尽くすということ。

これは苦手なことをするときにも応用できるだろう。
不得意なことを人並みにしようとせずに、
焦らずに自分ができる最善を尽くす。
人間に出来ることって、それだけじゃないか。

いま、ちょっと苦手なことをしている。
あんまりよく出来ない。
でも卑屈にならずに最善を尽くそう。

常に最高のパフォーマンスを発揮する、と書くことはそれは
絵に書いた餅で、常に最高の人なんていない。
でも常に最善の人はいるだろう。

私の人生で「運命だ、しかたない」と言える分野は
どれだけあるだろう。
怠惰に押し流されて、最善を尽くせていない
ことが多々ある。
昔の人はいいこといった。
「人事を尽くして天命を待つ」だ。

最近「諦める」がキーワードの本が増えた気がする。
でも、こう考えると、
「その件に関しましては、人事を尽くしましたので、
運命に委ねております」と「委ねる」というキーワードの
方が私は好きだ。

「諦める」とは「明らかに見る」という意味もあるという
人もいるけれど、どうも敗北の匂いがする。
それだったら「やることやっているので、運命にゆだねています」の
ほうが好きかな。
これには禅(ヨガ)の香りもする。

道元禅師の書いた禅の極意がある。
坐禅というと修行!という感じで、かなり積極的に
行を積んでいくという「自力の世界」というイメージがあるけれど、
じつは「人事を尽くして天命を待つ」の世界なのだ。

道元禅師の言葉。
「ただわが身をも心をも放ち忘れて、
仏の家に投げ入れて、仏の方より行われて、
これに随いもてゆく時、力をもいれず、
心をも費やさずして、生死を離れ仏となる」

仏の家に自分を投げ入れるところまでは「自力」なんだろうけど、
そこから先は仏任せの「他力」

人生、どこからどこまで「自力」でどうにかなる?
私は自力の力はかなり微力で、人との出会いだったり、
社会情勢だったり、運命に左右されているところが大きいと
思う。
確実に言えることは、最善を尽くさない人には
運命と言えるようなものは無いということだろう。

 

四つの約束
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Category: ヨガ的かんがえ

- 2016年2月1日

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