灼熱のなかのシェルター

この世がゲームだとすると、
設定がとてつもなく偏ったゲームだ。
幸福と不幸のバランスがおかしい。

ブッダはこの世は「この世は苦しくで不自由ある」と
言った。(四聖諦の苦諦)

これは簡単にわかる。
人を幸福にするのは難しい。
不幸にするのは簡単だ。
なぜなら、不幸がこの世界の重力だからだ。

たとえば、宗教では極楽と地獄が語られる。
地獄の描写はこれでもかとリアルだ。
針の山を登らされたり、茹でられたり潰されたり、
焼かれたり、まさに地獄だ。

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でも、極楽の描写は?
なんか綺麗なところで、花が咲き乱れて、いい匂いがして仏様がいて、
ながーい箸でお互いに食べ物を与え合う、みたいな
非常に漠然としたものにすぎない。

 

では宗教的な概念は置いておいて、現実に
あなたよりも100倍幸せな人はいるだろうか?
たいていみんな似たり寄ったりだ。
アメリカの大富豪にアンケートしたら、幸福度は
マサイ族の男たちと変わらなかったという話がある。
世の中の幸福の上限は、天井がとても低い。
小人の家にはいったように頭を打つ。
一生懸命、天井を押し上げようと努力するけれど、
それは徒労に終わる。

しかし、どうだろう。
あなたよりも100倍不幸な人はいるだろうか?
テロリストの嫌疑をかけられて、グアンタナモ強制収容所で
地獄のような拷問をうける無実の人は私よりも100倍不幸だ。
子供を誘拐され殺害された親、一夜にして地震で家族や知り合いの大半を失う人、
戦争、犯罪、破産、激痛をともなう病、などなど。
幅広いバリエーションで、100倍の不幸は溢れている。
しかしこの対極にある「拷問をうけていない状態」
「家に子供がいる状態」「地震がない一日」「健康な一日」
は、この激烈な不幸と比べると、とくに人にいうほどでもない
当たり前の日々でしかない。
それを失ってはじめて気がつく淡いレベルの幸福と、
目をそらすことが不可能な不幸のコントラスト。
これがこの世だ。

この世では幸福はまぼろしだ。
頭をひねっても、考えつく極楽はたかが知れている。
それは、現実にほとんど存在しないものを元に考えるからだ。
一方、地獄ならいくらでも考えられる。
真のリアルさを持つのは不幸なのだ。

だから、この世でできる幸福になる行動とは、
いかに苦痛を減らせるか、苦を減らせるかによる。
ショーペンハウアー先生は「灼熱の中の庵室をつくる」という表現をしていた。
積極的に幸せになろうとしない。
不幸を減らそうとする。
逆にいえば「苦しみを減らすことが幸福」なんだろう。

ブッダの語った「人生は苦しみで不自由である」という言葉には
続きがある。
「苦しみと不自由にも原因がある」
「そして、その苦しみと不自由はなくすことができる」
「そのための方法がある」
絶望と本当の希望。

そこから考えると、
人生を唯一救うものは仏教(瞑想とそれを支える行動と考え方)だ。
私にとって「苦しみを減らす灼熱のなかのシェルター」は瞑想だ。
ショーペン先生にとってはそれは「哲学」だった。

この世のシェルターになり得るものは他になにがあるだろう?
お金、権力、人望、美貌、、、、、
ブッダは「瞑想とそれを支える行動と考え方」(仏教)以外には
存在しないと言った。
本当にそうかもしれない、と思う。

では社会で生きながら仏教徒として生きるにはどうすればいいのか。
これについては簡単に結論がでている。
「五戒を守って、日々瞑想して生きる」
これで仏教徒だ。

逆にいえば儀式をしてもらって受戒をされ、戒名をもらっても
五戒を守らず瞑想もせずに生きている人は仏教徒ではない。
行動が仏教徒を仏教徒たらしめる。
ならば一日、一日を仏教徒の資格に足る生活をおくれば、
それで仏教徒なのだ。
だれかに宣言する必要もなければ、衣装も決まっていない。
アメリカではナイトスタンドブッディストという言葉がある。
(仏教に興味を持っている人々が、人生の充実を求めるために仕事を終えて家へ戻り、夕食を済ませ一息ついたら、書斎や寝室、自分の部屋で、ナイトスタンドの小さなやさしい灯りをともし、ブッダの教えにふれ、ひとり静かに自らを見つめます。こんな人々をアメリカでは「夜の電気スタンド仏教徒」とよんでいます)

これだなぁ、と思うこの頃。

 

 

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Category: ヨガ的かんがえ, 読書

- 2015年4月27日

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