日本のバラモン階級について

歌舞伎役者が出家したというニュースをみて、
やっぱり日本の仏教は特殊だなぁという感想を
あらためて持つ。
彼は俗世との縁を切り、無一物に近い状態で
僧として生きるのではなく、いままで通りに仕事を
しながら僧侶としてのステータスも得たみたいな
話のようだ。
日本仏教はなんでもアリアリなのだ。

そもそも日本の出家は、仏教の無一物の出家とは
意味合いが違う。
出家ではなく家守という言葉がピッタリくる。
けっして家を出ない。
むしろちゃんと家業を守るのだ。

インドには宗教儀式を執り行うバラモンのカースト(階級)が
家業として相続されているけれど、
日本の仏教は、インドのバラモンに近い。

家業である寺を相続して、葬式などの儀式をとりおこなう。
だから、出家だけれど妻もいれば子供もいる。
あたりまえだけど自宅もある。
お金も取り扱うし、お酒も嗜むし、一日一食ではない。
僧侶が守るべき律は無きに等しく、ほとんど俗世の人と
変わらない生活をしている。
これは僧侶としてみると異常だから、
やっぱり儀式(葬式)をメインに取り扱い家業として、
親から子へ継承していくバラモンだと思ったほうが
私としては納得しやすいのだ。

私は一時期、金沢にあるD寺の早朝坐禅に
100日ほど参加していたことがある。
そこでは僧侶になるべく日々修行している雲水さんと
坐禅ができて、そこで修行を終えた雲水さんと話す機会があった。
彼は修行を終えて、家に帰りお寺を継ぐという。
話を聞くと、みんな変えるべきお寺(家)があり、
それを継ぐために修行にきているとのことだった。
お寺は家業なのだ。

日本の仏教はいま曲がり角にきている。
葬式が簡素化されて、寺への関心が薄れ檀家が減って
寺の継続が難しくなっている。

私の親が死んだ時、高額なお布施を払って戒名を
つけてもらおうとは思わない。
そもそも戒名は、仏教の修行をするために受戒した
人が受ける名前で、死んでしまって修行ができない死者に
立派な名前をつけても意味がない。
戒名はいらないという本があったけれど、生前ならともかく
死後に戒名などいらない。
名前を変えて、生前に犯したカルマから逃れられることはない。
良くも悪くも、カルマは死後について周り、それは書類を偽造する
ように名前を変えたから大丈夫という理屈は通じない。
無意味だ。

回向といって死者に功徳をわけることができるけれど、
それはお金を払って赤の他人にしてもらうよりも、
自分が善行を積んで、心のなかでこの功徳を亡くなった人に
回向しますと心の中で念じればOKだ。
(マハーカルナー老師のポットキャストでたしかそうおっしゃっていた)

戒律を守って厳しい修行をしている僧侶の回向ならたしかに効果がありそうだけど、
あんまり凡人と変わらない生活をしている赤の他人に
お金を払ってやってもらうなら、

自分でしたほうがいいし、死んだ親族もそっちのほうがありがたいだろう。

もしも怖いことを言う人がいて、
僧侶に葬式をしてもらわないと地獄に落ちるというのなら、
生前の本人の生活態度がまったく無関係で、死んだあとに執り行われる
儀式いかんで行き先が決まることなる。

これはありえない。
シンプルに悪行三昧の人はそれなりの所に行き、
善行三昧の人はその人に相応しい所に行く。
みんなに慕われる善人が死んだとき、すっごい呪いの儀式をしても、
その人の行き先はカルマによって決定されて、微動だにしないだろう。
葬式にバリバリお金をかける必要はない。
葬式は、死者のためではなくて生者が死を受け止めるための
儀式なのだ。
葬式を必要としているのは生きて見送る人。
私は最近流行りの家族葬で充分だし、
私が死んだときも、葬式は簡素でいい。
読経も花も戒名もなにもかもいらない。

私にとってお寺の存在意義は、たとえば坐禅をしに行くための
場所としてだけだ。
金沢にある大乗寺は、坐禅道場として開かれている。
だから大乗寺が無くなると困る。
真剣に坐禅をしている人たちと一緒に座る時間はとても貴重だ。
大乗寺には代々この寺を相続する一家がいない。
かなりレアな寺だ。
だけれど「お寺=家」の一般の家業のお寺は不特定多数に開くことは難しいだろう。

これからお寺は観光産業になるか、本来の形である修行の場所に
なるか、もしくはお寺という箱を無くして、葬式に派遣される葬儀のプロとして
残っていくか。
どこもかしこも時代の波に飲まれて諸行無常だ。

まあとにかく、
時代の変化の破壊と再生で、
瞑想修行できる場所がもっと増えるといいなぁと思う。




Category: ヨガ的かんがえ

- 2016年6月1日

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