人としての身の丈にあった生活

家にドナルド・トランプ大統領が来ることになっても、
象に食わせるほどのパンは必要ない。
彼のベットは常人の5倍ほどの大きさにする必要はない。
水も、人の10倍飲ませる必要はない。
寿命も、とくに貧者と変わらず120歳を超えて生きる可能性は低い。

人体としてのトランプも私も、要求することはとても少ない。
人としての身の丈に合った生活をするならば、
うなるような金も必要なければ、世界を動かすほどの権力も
必要ない。

だけど、人間としての人格が人体にプラスされると
要求はどんどん大きくなり、大統領になる必要性も生まれ、
黄金に囲まれて生きる必要性も生まれる。
彼を雇うとなると、天文学的な数字の金額がいるだろう。
でも、いったい何にそのお金を使うのだろうか。

難破して荒れ狂う恐ろしい大海原に怯える人に
賢者は人を溺死させるには桶一杯の海水で充分であると
言った。
つまり大海原で溺死するのも、桶の海水で溺死するのも、
何も変わらない。
ある限界を超えると、それ以上は何も変わらない。
余計に怖がるだけ損だし、それはプラスのことにも言える。
お金はある程度のレベルを超えると、意味をプラスしなくなる。

だから、トランプ大統領の生活も、島国の地方で
細々と生きている私も、実際、そんなに変わらない。
食べて、糞して、寝るの繰り返しだ。
これはどう考えても事実なのだ。

これはウ・ジョーティカ師の著書である「自由への旅」を読んで
教えられたことなんだけど、
瞑想の最初では、概念と真実を区別することを学ぶ。

たとえば、呼吸に意識をむけるとすると、
「呼吸」という言葉は概念だけれど、
呼吸の感覚(真実)は概念ではない。

「呼吸」という概念にゴテゴテと色を塗ることはできる。
聖なる呼吸であると意味づけたり、イメージを思い浮かべて、
呼吸を複雑にすることもできる。
だけども、呼吸の感覚は感覚だ。
真実は、なにも変わらない。

ミネラルウォーターを買ってきて、その水に凄い物語を
つける。南極の水であるとか、とても限られた貴重な水で
あるとか、それによって飲む人の受け取り方を変えることができる。
だけれども、そういう「物語」を真に受けず、ただ感覚を感覚として
とらえる人には、水を飲む感覚は水の飲む感覚だ。

つまり、概念の世界に生きるのならば、私とドナルド・トランプが
同じような人生を生きているとは、まったく言えないのだけれど、
一日に受けとる感覚(真実)を1つ1つ調べていくと、そう大差ない生活になってしまう。

重さ、軽さ、暑さ、寒さ、苦痛、心地よさ、、、、
人生は、それらの組み合わせでしかない。

人生は、人の頭の中で作り上げられたフィクションであって、
それが人それぞれの牢獄になっている。
私は私の考えた概念の檻に入っている。
でも、本当は人が必要なものは驚くほど少ないと
ウ・ジョーティカ師は言う。

私もかなり過剰に色々なものを欲しているけれど、
目指すべきはもっとシンプルに生きることだ。
瞑想はそのための唯一の方法になる。

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Category: 瞑想

- 2017年1月18日

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