人生でこれだけは覚えておこう

 

 

 

 

生きていると、いろいろなことが迫ってくる。
生きているとお腹が減るし、
動かないと食料は得られない。
起きていると眠くなる。
これらは欠かすことが出来ない。
まさに「人生そのもの」だ。

人生というものを過大評価していないだろうか。
なにかもっと輝かしい生き方があって、
そうすれば今とは違うという幻想が私にはある。

だけど、どんな人生を生きても食べて働いて眠っての繰り返しだ。
クリスマスプレゼントのワクワクが雪解けと共に消えてしまうように、
輝かしさには慣れてしまう。
そうなると、好むと好まざるとやらざる得ない人生の義務だけが
露わになる。

食べて、寝て、働く。
これこそが人生だ。

なにかもっと特別なものを求めている人も多い
だろうけど、物質的な人生においてこれ以上の意味はない。
あとはあってもなくてもいいオプションだ。

逆にいえば、最低限の食べて、寝て、働くさえ満たしていれば
あとは自由なのだ。
「人生の要求」と「人間が長い間かけて作り上げたオマケのゲーム」
を混同してはいけない。

自然が要求していることは、シンプルだ。
「食べろ、寝ろ、食を得るために動け」
これだけだ。

しかし
「人間が長い間かけて作り上げたオマケのゲーム」
がプラスされると、それがどんどん複雑になり、
応えるのが難しくなる。

たとえば、無意識に「こうあるべき人生」というのが
ある。

正社員として働き、結婚して子供を作って、
一戸建ての家に住み、土日にはお金をかけて娯楽を楽しむ。
自分にご褒美の買い物をするだけの収入と、
子供に高額な教育を受けさせる資金。
老後の年金と蓄えが数千万。

ここから外れるとゲームオーバー。
「負け犬」「負け組」などと
呼ばれることになる。
だから死にものぐるいでこの基準を満たすために
がんばる。

だけど、こんなのただのオマケだ。
時代によって、この要求はころころと変わる。
江戸時代には江戸なりの要求があっただろう。
国によっても違う。
アフリカではいまでも一夫多妻制で、
マサイ族では親友と妻を性的に共有することもあるそうだ。
信じられない常識だけど、マサイ族に生まれたら
それが当たり前に感じられるんだろう。
同じ毒が、私にも盛られている。
私やあたなが思う「日本のあたりまえ」はあたりまえじゃない。

だけど「人生の要求」は普遍的だ。
江戸時代でも「食べて寝て働いた」だろうし、
ブッダも、マサイ族も同じで、原始人も、あらゆる哺乳動物も
「食べて寝て働いている」
これが揺るがない人生の根本で、
あとはオマケなのだ。

その証拠に「人間が長い間かけて作り上げたオマケのゲーム」
をいかにクリアしたか、どれだけ人間が作り上げた概念である
「お金」を集めたか、などなどのゲームの高得点要素は
死ねばすべてなんの意味もない。

「人生の要求」である「食べる、寝る、働く」も
死と共に静かに止む。

これは確実に言えることだ。
たとえば暗号機のエニグマを解析したチューニングは、
生前、ひどく不遇な人生を生きた。
しかし、死後にその功績が認められて表彰されることになった。
だけど、死者にとっていったいなんの意味があるだろう。
そういう「意味」は死によって無意味になる。
だから人生そのものには重い意味はない。

さあ、ここから先は飛躍しよう。
死後にあらゆることが無意味になるか?
私はそうは考えない。

ヨギーであり仏教を信仰するものとして、
残るものがあると信じている。
それは「因果」だ。

自分がどんな善行と悪行をしたのか、
その原因と結果だけは、死後もついてくる。
その因果が次なる生を形作り、
人は永遠に生と死とを巡りつづける。

冷静になってよく考えなければならないのは、
いったいなにが「善行」で「悪行」なのか、という
ことだ。
これを教えることこそが最高の教育で、
これに比べると他はすべてガラクタにすぎない。

たとえばあなたが未来の見えない無職だとする。
だけど、これ自体は「善行」でも「悪行」でもない。
ブッダも無職だったし、他者からご飯をもらって生きていた。
無職でも「善行」の扉は閉ざされない。
べつに社会的に偉くなくても、まったく構わない。
いまでこそ仏教は社会的に認知されているけれど、
結成当時は、社会的には得体のしれない乞食の群れと
言われても否定できないものだった。
だれも生産しないし、お金も持たないし、消費もしない。
だけど、善行からみれば輝かしいものだった。
その威光はいまでも燦然と輝いている。
人間社会の要求と善行とは、あんまり関係ない。
あなたが社長だろが、平社員だろうがフリーターだろうが、
善く生きる扉は平等に開かれている。

どちらに進むべきだろうか。

ブッダはいう。
「1つは利得に達する道であり、他の1つは安らぎに至る道である」

利得に達する道とは「人間が長い間かけて作り上げたオマケのゲーム」で、
安らぎに至る道とは「善行と心を重視して生きる」道になる。

社会で生きる私達は、まったく「オマケのゲーム」にかかわらないわけには
いかない。
だけど、本当に重要なのは「安らぎに至る道」であることを忘れずに。

 
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Category: 仏教, 生活を変える方法

- 2015年12月26日

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